浮世絵とクリムト

黄金様式で知られるグスタフ・クリムトは19世紀末から20世紀初頭オーストリアを代表する画家だ。1897年には古典主義からの脱却を望む芸術家を率いてウィーン分離派(Wiener Secession)を立ち上げた。ウィーン芸術の近代化を目指しヨーロッパ各地で起こった美術と工芸の融合(Arts and Crafts Movement)をウィーンで率いたのはクリムトだった。

ヨーロッパではこの頃「ジャポニスム」といわれる日本趣味・日本美術ブーム。
浮世絵版画の認知は、海外最初の記録はフランスのF. ブラックモンと《北斎漫画》との出会いが始まりと言われている。年代については1856年、1859年など諸説ある。それより前の1851年には最初の国際博覧会がロンドンで開催されたが、日本最初の参加(ごく小規模)は1865年のパリ万博まで待たなければならなかった。そして日本政府としての正式参加は1873年のウィーン万博となった。浮世絵は当時の展示品リストに含まれている(西川, 2007)。この時日本パビリオンは大変な盛況で、ウィーン中が「扇」だらけになったという記録もある(西川, 2007)。こうした経緯から日本文化はクリムトの活動期には芸術家知識人などのあいだですでにある程度認知されていたと考えられる。

クリムトは1862年生まれ。1876年にはウィーン工芸学校で学んだ。父親は金細工師。後のウィーン近代化に向けた力強い活動からも、美術・工芸分野の世界的な動向を注視していたことがうかがえる。そして多くの芸術家同様に浮世絵版画を収集していた(Herring, 2022)。 

エミリア・フレーゲの肖像 (1902)
Wien Museum
Inventory number 45677

左は長年クリムトのパートナーであったファッションデザイナーのエミリア・フレーゲの肖像。平面的で意匠化された画面・配色などにジャポニスムの影響が見られる。

画面の右下に黄色と緑の正方形。

黄色の正方形は名前と姓が改行して書かれています。左右がきっちり合っていて、その下に一行分の空白を取り、最後に作品年を左右に二文字づつ分けて、中心に二文字分ほどの空白をとっている。

緑の正方形は、GとKでデザインされたモノグラム。ウィーン分離派のメンバーは全てモノグラムを持っており、現在のThe Vienna Secession公式サイト*でも見ることができる。

名・姓・作品年を改行しデザインされた署名には、同時期のもう一つの潮流アール・ヌーヴォーの特徴も見える。
しなやかな曲線・曲面と装飾で描かれる画面では文字デザインも入念に行われ、こうしたスタイルの署名は同時期のほかの作家作品でもたびたび見られる。しかしその多くは背景に溶け込むように、いわばあまり目立たない署名が一般的だ。

しかしクリムトの場合、その部分の地色を変えて背景から際立たせている。作品内に使われている二色を用いたとはいえ、黄色の地に黒の署名は特に引き立っていて、フレーゲのデコルテに描かれた幾何学模様以上に目を引く。

名所江戸百景 深川木場 (1856)
歌川広重 国立国会図書館

こちらは広重の《名所江戸百景 深川木場》。浮世絵版画では画題や絵師名などを様々な形に枠取りし、彩色をして際立たせる方法は頻繁に使われる。名所江戸百景シリーズでは、署名とシリーズ名は短冊型、サブテーマが正方形で、右上に2つ並べた赤と黄のタイトルは黒色のはいけいから一層引き立っている。

クリムトを語るとき、琳派との関連を取り上げられることが多い。このフレーゲ肖像の青・緑・黄の色使いにも琳派の雰囲気を感じる。落款風の署名は、肉筆書画の観察によるだろう。そしてクリムトも浮世絵を仕事場の壁にかけていた(Herring, 2022)ということも知られている。

クリムトが《名所江戸百景》を実際に見たかどうかはわからない。この名所画がクリムトのコレクションになかったとしても、浮世絵をはじめとする日本美術からのインスパイアを受けたことは想像に難くない。

クリムトにとってのジャポニスムは、さまざまな時代の潮流と相まった独自のスタイルを生み出すほどに昇華された。そのことがよく伺える肖像画だと思う。

参考文献

《Bildnis Emilie Flöge》Wien Museum
https://sammlung.wienmuseum.at/en/object/820521-bildnis-emilie-floege/

西川智之 2007「ウィーンのジャポニスム 1873年ウィーン万国博覧会」『言語文化論集 』27 (2) 名古屋大学大学院国際言語文化研究科

歌川広重《名所江戸百景 深川木場》国立国会図書館(NDL)デジタルコレクション(2022/10/03閲覧)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312342?tocOpened=1

博覧会 近代技術の展示場(2022/10/03閲覧)
https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/index.html

Sarah Herring 2022 「Why do artists sign their works of art?」National Gallery London
https://www.youtube.com/watch?v=PQqSjrz29eU

*The Vienna Secession公式サイト(2022/10/03閲覧)
(クリムトのこの作品のモノグラムは現在サイトで見られるデザインとは異なっている。)https://www.theviennasecession.com/monograms/

2022年の李禹煥(リ・ウーファン)

Covid後初の帰国中、乃木坂の国立新美術館で「李禹煥展」を観ることができた。
国立新美術館開館15周年記念というだけに、1960年代の作品から本年の作品まで一気に味わえる充実ぶり。

関係項ーアーチ(2022)国立新美術館, 東京

《関係項》は李禹煥が長年にわたって素材や表現を変えながら作り続けている。石、鉄板、ガラス、木材などから、近年はアクリルや液体なども加わっている。私たちはひとつの《関係項》に2つの素材を見ることが多いが、当然そこには創作者のモノとの関わりが隠れている。モノと環境の関係。何かと何かの関係 素材・質感の相違による関係。モノは置かれた状況や他のモノとの関係でも役割が変化する。あるいは本来の役割を失う。そしてそれを見る側の見方によっても変化する。

前回李禹煥作品を見たのは2007年のヴェネツィア・ビエンナーレ期間中Palazzo Palumbo Fissatiで開催されたの個展だった。

展示風景(2007)Palazzo Palumbo Fissati, Venezia 

李禹煥と私は余白の好みが近いのだ、と勝手に思っている。作品に取られる余白は空(くう)でも無でもなく、空気がながれ、見る側にいる私までもそれを感じるからだ。

余白と言えば思い出すのが書の余白。書は白と黒の世界。まだ私が十代になったばかりのころ、書の師匠は、書き上がったら余白をみるようにといっていた。つまり、余白が美しいとき私の書もよくかけていると。それから今に至るまで平面も立体も、余白を見ること、いわゆる図と地の観察が癖になっている。

李禹煥の平面作品には書の経験を感じる作品が多い。平行と垂直のバランス。《線より》など見ていると、書の創作と重ねて、どれぐらい息を止めて描いたのだろうと想像する。美しい余白、地と図の完璧なバランス。そのストイックな集中の後に押し寄せるであろう疲労と恍惚までも共有してしまう。

展示風景 (2007) Palazzo Palumbo Fissati, Venezia 

そしてどの作品でも、《風より》のような一見ランダムな筆跡に見える作品や、広い空間でのインスタレーションであっても、作品の完結の仕方に優れた書家の作法が感じられる。

草間彌生や村上隆が現代アート作家日本代表として世界的な活躍を見せて久しい2000年代に入ってからも、イタリアのアート関係者からは「具体」とか「もの派」という言葉を頻繁に耳にしたものだ。

などと考えながら、ふと、ミラノ在住でイタリアを中心に活躍された長沢英俊氏を思い出した。連絡をいただきながらお会いできずに終わったことが悔やまれる。

今回の李禹煥展、観客がひいた展示室で美術館員に「李先生はお元気ですか?」とこっそり聞いてみた。「はいっ!お元気ですよ。」との即答。作品に触れた満足感がより膨らんだ。

浮世絵版画の伝播2

前回、浮世絵版画がどのように海を渡って伝搬されたかについてボストン美術館キュレーター、セーラ・E・トンプソン氏の見解から探ってみた。

トンプソン氏は一般にもよく認知された「陶磁器輸出の梱包材説」の元となったであろう美術史家レオンス・ベネディット(Léonce Bénédite, 1859-1925)の記録を自らの経験も含めて解釈した結果を述べていた。その際トンプソン氏は、年代についても独自の見解を示していた。

それは、版画家・図案家フェリックス・ブラックモンが印刷職人オーギュスト・ドラートルの工房で『北斎漫画』の一冊に遭遇したという事実はベネディットの記憶する1856年ではなく、1859年の出来事ではないかというものだ。

その根拠は、1858(安政5)年10月9日(グレゴリオ暦)に日本フランス間で日仏修好通商条約が締結されているということ。この点からトンプソン氏は1856年ではなく「1859年のことであるとするほうがもっともらしく思われる。」と記している。

美術史家ベネディットはこの事を1905年になって発表している。つまり約50年の年月が経過しているわけだ。通商条約締結後と考える方が確かに無理がなさそうな気がする。

浮世絵版画の伝播

「国芳・国貞展」のカタログに寄せられたセーラ・トンプソン氏の文章の中で、浮世絵版画のヨーロッパ伝播についても綴られている。

浮世絵は遅くとも18世紀後半にはヨーロッパにもたらされていた。しかしヨーロッパの芸術家の目に触れ始めたのは19世紀半ばまで待つことになる。1858(安政5)年、日本はアメリカ・イギリス・フランス・ロシアとそれまでも通商関係にあったオランダを含む5カ国と通商条約を締結して開国。これによって通商は活発化し、浮世絵のヨーロッパへの上陸量も増えたのだろう。

1905年に発表された美術史家レオンス・ベネディット(Léonce Bénédite, 1859-1925)の記事はフランス人芸術家と浮世絵版画の最初の出会いとしてよく知られている。
版画家で図案家のフェリックス・ブラックモン(Félix Bracquemond, 1833−1914)は印刷職人オーギュスト・ドラートルの工房で、ドラートルのところに日本から届いていた磁器製茶器を収めた木箱の中にあった『北斎漫画』に出会ったというものだ。

トンプソン氏は、この時の『北斎漫画』がどのような状態で箱の中にあったかについて次のように述べている。

  「おそらく木箱の角の小さな隙間に詰めることで、藁で包まれた陶磁器をしっかりと元の位置に留めるためためのものであった。(筆者の見解では、浮世絵版画が輸出される陶磁器の梱包材として使用されたというのは、おそらく広く知れ渡ったこの逸話に基づく誤解である。事実、そういった習慣に関する直接的な証拠はこれまで一つも見いだされていない。)」

つまりトンプソン氏は、浮世絵版画は器などを直接包むためというよりは、そうしたものを木箱の中で固定するために隙間を埋めるために使われていたのだろうと理解している。

浮世絵版画が陶器の緩衝材としてヨーロッパに上陸したという話は個人的にも相当昔から記憶にあった。そのイメージは例えば、有田焼の器を浮世絵版画で“包んでいた”という感じ。本やTVのドキュメンタリーなどで見た記憶かもしれない。

しかし浮世絵版画の動向に目を向け始めてからこのかた、何かを包んでいたような形跡を残した作品を個人的にも見たことがなく、長い間疑問を抱いていたのだった。というのも色刷りの紙についた皺を存在がなくなるまで伸すにはそれなりの手間と技術が必要で、容易なことではないと思うからだ。

トンプソン氏の見解のように、浮世絵版画が隙間を埋めるために使用されたとなれば、茶碗を包んでできるような皺に比べれば平な形状で海を渡ったはず、フランスの芸術家や好事家に見出されやすい状態だったに違いない。

参考文献
Museum of Fine Arts Boston 2016『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳わたしの国貞』光村印刷 p.212-213

うつぎ

旧暦の4月は卯月。

卯月(うづき)で思い出すのは「夏は来ぬ」という唱歌にも歌われる「卯の花」。
卯の花はまた「ウツギ(空木)の花」ともよばれる。空木は落葉低木で、主な生息地は日本や中国とのことですが、日本では5月から6月頃に小さな白い花をたくさん咲かせる。

さて卯月(うづき)といえば、ウツギ。「打つ木」、砧。

以前、国芳作の《六玉川 摂津国擣衣の玉川》で子供をおぶった女性の砧打ちが描かれていた。この作品にはウツギの花は登場しない。ほかの絵師の「六玉川 摂津」を題材としたものも背景に紅葉やススキ、秋の和歌など秋の気配が描かれている。

つまりこれらの浮世絵は「秋の季語 砧」という文学的な流れから描かれたもので、ウツギの花との関連は取り上げていないということ。

4月ー卯月ーウツギー打つ木ー砧

そう簡単には繋がらない。


梅と桜

《梅王丸と桜丸》にも見られるように、梅と桜は並び称されることが多い花だ。

江戸時代以降の春の娯楽としての花見の普及もあり、現在は桜がより身近になっているが、はるか昔、桜より梅の方が人々の関心を集めていたと言われている。

梅から桜への人気の移行期は奈良〜平安時代らしい。その頃といえば和歌集の編纂が多く行われた時期だ。

例えば、平安時代初期に編まれた最初の勅撰和歌集『古今和歌集』。「大和歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞなりにける」の序文も有名。この和歌集は春の歌から始まる。和歌の題材としての梅と桜に注目してみよう。

巻第一「春歌上」と「春歌下」には168首の和歌が選ばれている。そこで、和歌の中の梅と桜それぞれの出現和歌数を調べてみた。

梅:「春歌上」15首、「春歌下」0首 計15首
桜:「春歌上」17首、「春歌下」18首 計35首

さらに、和歌のなかで「花」といいながら、詞書から梅、または桜を詠んだと理解できる和歌は次のとおり。

詞書から梅を詠んだと判断できる和歌:「春歌上」2首、「春歌下」0首 計2首
詞書から桜を詠んだと判断できる和歌:「春歌上」3首、「春歌下」4首 計7首

ちなみに、これらの中に混在するかたちで花の名前ではなく「花」を使う和歌もみられる:
「春歌上」9首、「春歌下」27首 計36首

最初の梅と桜の比較だけをとっても、桜の出現数が多いことが見て取れる。
つまり、平安時代の初めにはすでに桜の方が梅よりも身近な、あるいは琴線を揺さぶる花になっていたようだ。

参考文献
佐伯梅友 注 1958 「古今和歌集巻第一、巻第二」『古今和歌集 日本古典文学大系8』岩波書店



シタ売


豊国の錦絵《舎人梅王丸・舎人桜丸》に、縦型楕円の枠に「シタ賣」と押印がある。「賣」は「売」の旧字体。ちょうど「村田」「米良」の2つの改印に続いて置かれている。

舎人梅王丸・舎人桜丸 (部分) BlueIndexStudio所蔵

これは「下において売る」という意味だ。地本問屋・書物問屋など出版物を販売していた当時の書店では、錦絵などを客からよく見えるように吊るすなどして販売していた。しかし、この印が押された版画は、下げたり飾ったりせずに下に置くなど「目立たないようにして売るように」という但し書きが加えられた形だ。

この時期は2名の町名主が作品検分をしていた。担当町名主は「村田」「米良」。「シタ賣」印の有無も町名主の判断となる。

この印が使われた時期は1850(嘉永3)年3月から約4年間、似顔絵とわかる役者絵の一部(竹内 2010)に押印されていた。

今回の作品は1850(嘉永3)年7月の江戸・中村座上演にあわせたもので、梅王丸は7代目市川高麗蔵、桜丸は初代坂東しうかを描いたものであることが、早稲田大学演博データベースによって確認できる。

『江戸文化の見方』によれば、1850(嘉永3)年3月は、天保改革の奢侈禁止令に触れて江戸払い(江戸十里四方追放)になっていた5代目市川海老蔵(7代目市川團十郎)が赦免となり江戸の舞台に復帰した時期であるために、話題の人気役者海老蔵を題材にした作品に「シタ賣」が押印されたものが多く見られるとのこと。

ちなみに、梅王丸を演じた7代目市川高麗蔵は5代目市川海老蔵の三男ににあたる。

天保改革により禁止されていた役者絵の流通が復活を見せていた時期。出版業界としては売れ筋の役者絵が再度の禁止令を受けることを危惧し、控えめな販売方法を促すために使われたのが「シタ賣」印だということだ。

<参照文献>
竹内誠 2010 「出版統制」『江戸文化の見方』角川学芸出版 p.316−317

<参考サイト>
早稲田大学文化資源データベース《舎人梅王丸・舎人桜丸》
https://bit.ly/3Kjtjcg(2022年1月11日閲覧)

梅王丸と桜丸 

2022年、令和4年の最初の作品は、梅と桜で華やかに。

舎人梅王丸・舎人桜丸 豊国画 BlueIndexStudio所蔵

作品名:舎人梅王丸、舎人桜丸(とねりうめおうまる とねりさくらまる)
板元:恵比須屋庄七
落款:豊国画(年玉枠)
絵師:三代豊国(国貞)
改印:米良・村田(シタ売)
判型:大判 錦絵
出版時期:;1850(嘉永3)年
興行名:菅原伝授手習鑑
上演:1850(嘉永3)年7月11日
上演場所:江戸・中村座

退色は画像のせいだけではなく実際にみてもこんな感じ。一方で目立つカビや虫食いもないところから安定した平らな場所か額装などの保存状態であったようだ。

この作品にはあまり一般的ではない「シタ賣」という押印がある。これについては改めて。

<参考サイト>
早稲田大学文化資源データベース『菅原伝授手習鑑』
https://bit.ly/3nmjEI2(2022年1月11日閲覧)

ボストン美術館の浮世絵収蔵内訳

『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 私の国貞』展のカタログにボストン美術館(MFA)の日本版画の絵師別収蔵数が掲載されている。今回はこのデータについてのお話。

まず「ボストン美術館に1000枚以上の作品が所蔵されている日本の版画の絵師」というタイトルの表が添付されている。

これまで私が記憶にあるのは2008年の『ボストン美術館浮世絵名品展 図録』のトンプソン氏の解説。かなり古い話ですが、その時点ではまだ登録は続けられており、ビゲロー・コレクションの浮世絵版画に関しても、「少なくとも30,000点になると確信する」という見通しを述べていた。これを踏まえて作品登録が完了したこの表を見ると、2011年に登録終了となったビゲロー・コレクションの版画総数33,264枚というデータは、当時のMFA担当者の確信に近い結果だ。

さて絵師別の数値。作品数の一番多いのは国貞の10,304枚。
ついで2番は広重5,776枚.、3番は国芳3,794枚、4番目初代豊国(国貞の師)1,563枚、5番目国周1,298枚、6番目北斎1,267枚…と続く。
国貞作品が他に比べてずば抜けて多いことがわかる。

つぎにこの表をコレクションごとに見ていこう。これは寄贈作品の多い2つのコレクションを比較している。
ビゲロー・コレクション*の1番は国貞9,088枚、2番目が国芳3,240枚、3番目が広重で1,736枚、4番目が国周1,192枚…。
一方でスポルディング・コレクション**の1番は広重2,383枚、2番目が春章452枚、3番目が北斎427枚…です。

ビゲロー・コレクションの総数は33,264枚で版画コレクション全体の63%を締めるといい、ビゲローの時代からすれば古い江戸時代の作品を、偏らず幅広く収集することに努めたようだ。
スポルディング・コレクションの総数は6,609枚で全体の12%で、とりわけ広重作品を好んで収集したようだ。そのおかげで絵師別作品数において広重が国芳を抜いて二番目に収蔵作品数の多い絵師となったことが指摘されている。さらにトンプソン氏は、スポルディング兄弟が入手した数少ない国貞と国芳の風景画について、19世紀の風景画収集は20世紀初めのアメリカのコレクターの典型的な嗜好であると指摘。影響を与えたのは1890年代フェノロサ***を代表とする“風景画により価値を置く見方”にスポルディング兄弟が影響を受けたことにも言及してる。いずれにしてもスポルディング・コレクションは門外不出。展示されることはない。

コレクターそれぞれのこだわりのおかげでMFAの所蔵は大変豊かなものになった。最終的には版画総数には現代作家による作品数も含まれているそうだが、それにしても膨大だ。とりわけビゲロー・コレクション。この数値を見ると2016-2017年の国芳国貞展の殆どがビゲロー・コレクションだということも納得だ。ビゲロー・コレクションも2000年までは美術館の規約により貸し出し禁止だったことを考えると規約が変更されて幸いだった。

2011年の作品登録終了から10年も経ったが、クニクニ展の日本版カタログが入手できたおかげでデータを知ることができた。

なおトンプソン氏はこの解説を「宝物の終の棲家を探すときにはMFAを思い出してほしい」という言葉で結んでいる。浮世絵版画の終の棲家としてMFA以上の場所はないと私も思う。この10年の間には新たな宝物が増えているに違いない。

セーラ・E・トンプソン(Sarah E. Thompson)
ボストン美術館 アジア オセアニア アフリカ美術部 日本美術課 キュレーター(Curator, Japanese Art Museum of Fine Arts, Boston)
注:日本語によるタイトルは参照文献による

*William Sturgis Bigelow Collection
**William S. and John T. Spaulding Collection
***Ernest Francesco Fenollosa: MFA日本部(のち東洋部)初代部長

<参照文献>
セーラ・E・トンプソン 2016「ボストン美術館の国芳と国貞」『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 私の国貞』光村印刷 p.210-215

5年越しのカタログ

2016年に渋谷Bunkamuraで開催された『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 私の国貞』展。帰国中に観ることができたものの、飛行機に預けるトランクの重量の問題でカタログの購入を断念して帰宅してからというもの、2017年にはMFAでも国芳国貞展もあり、完全に失念していた。それがふと思い立って見た古書サイトで発見。サイトの本の状態では「良好」とあったが、どう見ても新品。

ざっとめくって一番に目に入ったのは、MFA日本美術キュレーターのセーラ・トンプソン氏の解説。 2016−2017年の二カ国開催のクニクニ展がつぎつぎに目に浮かぶ。