サイ・トゥオンブリ

サイ・トゥオンブリ (Cy Twombly) はアメリカ出身の現代アート作家。

1928年ヴァージニア州に生まれ。ボストン美術館付属美術学校、ノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジなどに学びながら1951年にニューヨークで初の個展開く。その後南ヨーロッパや北アフリカを旅し、1957年、イタリアを定住の地とする。そして2011年83歳に生涯を終えるまで、50年以上をローマで過ごした。

現在、ボストン美術館でサイ・トゥオンブリの企画展が行われている。
そこで私が最も長い時間を過ごしたのは《Il Parnaso》。この作品は、ヴァティカン美術館「署名の間」のラファエロ・サンティによる一連のフレスコ画のなかの一作で、同名の作品《Il Parnaso (パルナッソス山)》からインスピレーションを得たとされている。

トゥオンブリは、このラファエロ作品の構成をたどっているので、先にラファエロ作品を見てみよう。

Parnaso (1510-1511) Musei Vaticani

ラファエロは、リラ・ダ・ブラッチョを奏でる芸術の守護神アポロを中心に、ミューズたちや「Carpe diem」で知られるホラティウス、『オデュッセイア』のホメロス、『神曲』のダンテなどラファエロの時代(ルネッサンス)までの著名な詩人たちが集う様子を描いている。

一方、下のトゥオンブリ作品もパルナッソス山に集う神々や文学者などが描かれ、ラファエロ作の登場人物は「Apollo」や「SAPPHO」のように名前やイニシャルなどでしるされているため、それを辿ることで両作品の構成の類似がわかる。また、ラファエロ作品が描かれたルネットの下がドアのために半円にはなっておらず、トゥオンブリ作品の中にもドアを枠取りした部分が作品中央下にラフな線で区別されている。そしてそのなかに彼は、3行に改行しながら「Il Parnaso/Cy Twonbly/1964」とタイトルと署名をしている。

Il Parnaso (1964) Cy Twombly Foundation

この作品を前にした最初のインパクトは、トゥオンブリが作品のなかにいる印象。《Il Parnaso》を描くトゥオンブリは、ヴァティカンのラファエロ作品のパルナッソスの芸術界に身を投じ、一方でキャンバスに向かって、パルナッソスの芸術界にいる自らも含めて描いたように見える。

サイ・トゥオンブリの作品の多くは抽象ながら一見して美しいと感じる。彼のインスピレーションの基本になるものは、学生時代から興味をもっていた古代ギリシャ・ローマの遺産(遺跡・遺品)。MFA付属美術学校時代もMFAに展示された古代の彫像や遺跡の破片をみるために足繁く通っていたことが今回の展覧会の中でも語られている。

そして遺跡や遺品を巡る旅のなかでローマに拠点を得たことによって、彼は自らのインスピレーションの源にドップリと浸かった創作人生をおくることになる。なんと幸せなことか! 古代ギリシャ・ローマ文化、文字ーグラフィティへの関心と、顕著な繰り返しへのこだわりや独自の(わずかな)色の法則などは、見る側にとっては彼のメッセージに触れる大きなヒントとなる。

トゥオンブリが「自らの言語」で語る時、何のためらいもみえない。グラフィティのように、あるいは色や動きで画面上に表現されるものはすべてが彼の一部となって、非常に早いスピードで迷いなくアウトプットされる。作品は既に彼の中で完成されているのだ。そうした彼の創造の跡を辿るうち、彼が作品の一部としてそこに存在しているように感じる。

そして、その勢いと空(無)とのバランスが、明瞭さと美しさを感じさせるのだ。

参考サイト
Cy Twombly, Il Parnaso, 1964
https://www.mfa.org/exhibition/making-past-present-cy-twombly

Raffaello Sanzio, Il Parnaso
https://www.museivaticani.va/content/museivaticani/it/collezioni/musei/stanze-di-raffaello/stanza-della-segnatura/parnaso.html

長登とファン・ゴッホとジャポニスム

ウェブ検索によれば、貞斉泉晁作の錦絵《尾張屋内長登》は2つの美術館で所蔵が確認できる。ボストン美術館に2点、もう1点はアムステルダムのファン・ゴッホ美術館。

ファン・ゴッホ美術館(以下VGM)はフィンセント・ファン・ゴッホ作品の展示公開を目的に1973年に開館した。1890年の画家フィンセントの死後、彼の作品などは弟のテオ、その妻を経て夫妻の息子フィンセント・ウィリアム・ファン・ゴッホ(伯父と同名)に相続されていた。作品をまとまった形で保管・公開したいというこの甥フィンセントの意思によりファン・ゴッホ美術館財団が設立され、オランダ政府が出資して美術館が建設された。ファン・ゴッホ作品のほか交流のあったポール・ゴーガンやトゥールーズ=ロートレック、彼が好んで模写をしていたバルビゾン派のミレーの作品なども所蔵する。ちなみに今年2023年、同館は50周年を迎えるとのこと。

VGMによれば、彼が1886−87年に購入した660点の浮世絵版画のうち、少なくとも512点が美術館に所蔵されているという。そして《尾張屋内長登》もフィンセントが収集した浮世絵版画の1つだったのだ。

Van Gogh Museum (公式サイトより)

1886年フィンセントはパリのアートディーラーのマネージャーとして働くの弟テオ宅に居候を始める。このころフィンセントは、通っていた画家フェルナン・コルモン(Fernand Cormon, 1845–1924)の画塾やテオを通して、モネやトゥールーズ=ロートレックなどの印象派の画家たちと出会う。そしてファン・ゴッホ兄弟は、1870年から浮世絵版画と工芸の店を経営していたジークフリート・ビングから浮世絵版画を買い始めるのだ。

同年の5月に刊行された雑誌『パリ・イリュストレ』の日本特集はシャルル・ジロが編集長を務め(馬淵,2011)、林忠正の論考や歌麿、春栄、豊国、北斎の図版が掲載された。これもフィンセントに多大な影響を与えたといわれている(神津,2017)。ビングについては以前ベルト・モリゾ関連で触れたが、もう少し先の1888年5月に『芸術の日本』を創刊している。1891年4月まで続いた月刊誌でフランス語、英語、ドイツ語の3カ国語で出版された。各号の表紙は絵画や浮世絵がカラー印刷され、論文1本と10点の色刷り複製版画が含まれたものだった(吉田,2014)。こうした質の高い出版物の数々からも、当時のジャポニスムの潮流の大きさがうかがえる。

フィンセント・ファン・ゴッホの作風は1886年以降、著しい変化が見られる。パリで出会った印象派や浮世絵に触発されたことはいうまでもない。そのうえこの1886−87年は、絵の具の質が大きく向上した時期でもあった(秋田,2019)。つまり、土由来のくすんだ色から鮮やかな色彩表現が可能になったことは「日本のような明るさ」を描こうと鮮やかな色を必要としたファン・ゴッホにとって、とても幸運なことだったのだ。

こうして描かれたフィンセントの浮世絵版画と日本への熱狂は、色彩豊かな作品によって今や誰もが知るところ。浮世絵から受けた豊かな色と明るい印象を日本そのものに重ね、地中海性気候の南フランス・アルルを日本に見立てて引っ越したのはそれから約2年後のことだ。

フィンセント・ファン・ゴッホは彼にとって異文化そのものだった浮世絵版画を自らの技術とアイディアに昇華し、独特のスタイルを確立した。独創的な解釈、彩度の高い絵の具使いや大胆な筆致で描かれた晩年の作品が国境を越えて多くの人々を魅了するのは、それらの作品の一つ一つに「庶民の芸術」と呼ばれた浮世絵版画の魂が受け継がれたからなのかもしれない。

参考文献
秋田麻早子 2019「絵を見る技術ー名画の構造を読み解く」朝日出版社
神津有希編 2017「北斎の受容およびジャポニスム関連年表」『北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃』国立西洋美術館 読売新聞東京本社 pp.314-323
吉田典子 2014「ベルト・モリゾと日本美術(2):麦わら帽子の少女における浮世絵の画中画について」『Stella』33, pp.213-236.  Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université du Kyushu

参考サイト
馬淵明子『フランス人コレクターの日本美術品売立目録』紹介サイト
https://www.aplink.co.jp/synapse/4-86166-059-7.html

「Van Gogh Collects: Japanese Prints」Van Gogh Museum
https://www.vangoghmuseum.nl/en/japanese-prints

「Biography, 1886 – 1888 From Dark to Light」Van Gogh Museum
https://www.vangoghmuseum.nl/en/art-and-stories/vincents-life-1853-1890/from-dark-to-light

尾張屋内 長登

令和4年最初の錦絵は《尾張屋内長登》。

桜の下、禿を引き連れて歩く尾張屋の花魁長登。肩から袖にかけては眼光鋭い龍に抱かれ、裾からは猛々しい虎が花魁を見上げるという人目を奪う打ち掛けを纏っている。古来から縁起が良いとされる竜と虎。おそらく金糸などで立体的に刺繍されたものと想像する。竜や虎、鳳凰など力や格を表す柄は花魁の打ち掛けとして好まれたもの。金の光を放つ大胆な柄が黒地に生えて美しい太夫が纏えば粋の極みであっただろう。

打掛けとは対照的に、掛下は白地に青の花菱紋や蔦柄が描かれたやさしく清々しいもの。紗綾形のエンボスも施されて豪華さが増している。エンボスは半襟と頭上の桜にも使われている。前結びの帯もまた可憐な八重桜。簪の飾りはかたばみのようだ。個性的なデザインを甘辛とりまぜてバランスのよい豪奢で完璧なコーディネート。花魁の掛下と白地に青にあわせた禿の髪飾りも菱にかたばみのようにみえる。長登のほかの錦絵では、この文様が打掛けの背紋に使われている*ので、長登の紋だと考えられる。

尾張屋内長登 BlueIndexStudio所蔵

ところで、このサイトBIS所蔵版には落款、版元印、改印がない。図柄を元にGoogle検索した結果、ボストン美術館(以下MFA)とヴァン・ゴッホ美術館(以下VGM)に酷似の錦絵が所蔵されていることがわかった。
BIS版の真偽は不明であるとお断りしたうえで、貞斎泉晁画《尾張屋内長登》をみていこうと思う。

貞斎泉晁は1812(文化9)年生まれで没年は不詳。渓斎英泉の弟子で美人画を得意としていた。MFAは泉晁の活動年を1830−1850年、作品制作年は江戸期というにとどまっている。VGMは制作年を1835-1839年頃としている。
版元は耕書堂(蔦屋吉蔵、南伝馬町一丁目)。改印は極で、極印単独の第二期(1815−1842年)と考えられ、MFAによる泉晁の活動年を考慮しても1830−42年が制作と考えられる。VGMの制作年1835−39年もここに含まれる。
花魁と禿が着飾って歩く姿は大変人気のテーマで、多くの絵師が競って使った画題だ。泉晁もこれと同じようなレイアウトでシリーズ化し、ほかの花魁も描いている。また長登自身も泉晁のほか渓斎英泉による錦絵も多く残っている。彼女の人気のほどもうかがえる。

尾張屋内 長登(江戸時代)貞斎泉晁
MFA Accession Number: 11.37466

制作時期の参考に『吉原細見』も検索してみた。資料が見つかったのは1834(天保5)年、1836(天保7)年、1837(天保8)年、1842年(天保13)年、1844(天保15)年の5年分。前後余裕を持って確認してみた。これらの資料の「尾張屋」の欄のすべてに「長登」がみられた。このことで、同時期に尾張屋に長登が存在したことは確認できた。

BIS版は桜のうえに黒のぼかしがあって夜桜のような印象だが、他のMFA版やVGM版にはぼかしはない。BIS版は打掛けの色も紫の褪色というよりは元来藍が使われたのではないかと想像する。そして絵師の落款や版元印、改め印はなく、ちょうどそれらがあるべき位置に墨をこぼしたようなシミがある。墨のたまりとにじみの染み具合は古さを感じる。

さて、落款、版元印、改印がないということは何を意味しているのか。錦絵の場合はそうした印は黒摺り部分のデザインといっしょに版木に彫り込まれるのが普通。もしオリジナルの版木を使いながら印を摺りたくないとしたら、意図的に摺らない方法が必要になる。つまり印の部分だけを版を潰したりするということだ。真作をもとにして新たな版木を用意して摺ることも可能だろう。明治あたりはまだ腕のいい浮世絵職人はたくさんいたはず。
ところで改印制度は明治8年を最後に撤廃される。つまり明治9年からは錦絵出版に規制がないのだ。

通常版木は版元が指定する枚数を摺ったあとは版を潰して新たな版に再利用されるといわれる。それができないほど使い込んだものは薪になったそうだ。オリジナル錦絵をもとに新たな版木を彫り、摺って売りだすに値するような際立った特徴と人気の錦絵にも見えず、手間と諸経費からも割に合うとは思えない。まだ潰す前の版木を何らかの形で手に入れて、印の部分を潰して摺った一枚と考えるほうがまだ現実的な気がする。

<参考文献>
石井研堂 1920「錦絵の改印の考証:一名・錦絵の発行年代推定法」伊勢辰商店

<参考サイト>
「Nagato of the Owariya, from an untitled series of courtesans under cherry blossoms 尾張屋内 長登」ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/462140/nagato-of-the-owariya-from-an-untitled-series-of-courtesans?ctx=be5f8e1c-867c-43ba-bf58-6d99b7e78a69&idx=1

*「Evening Bell at Mii-dera Temple (Mii no banshô): Nagato of the Owariya, No. 1 from the series Eight Views in the Yoshiwara (Yoshiwara hakkei) 吉原八景 一三井の晩鐘 尾張屋内 長登」ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/216876

「The Courtesan Nagato of the Owari House, from an untitled series of courtesans under cherry blossoms」ヴァン・ゴッホ美術館 アムステルダム
https://www.vangoghmuseum.nl/en/japanese-prints/collection/n0450V1962

1834(天保5) 「吉原細見」蔦屋重三郎 早稲田大学古典籍総合DB
https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991021076419704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=

1836(天保7)「吉原細見」蔦屋重三郎 早稲田大学古典籍総合DB
https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991021077239704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=0

1837(天保8)「吉原細見」伊勢屋三次郎 早稲田大学古典籍総合DB
https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991021077379704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=0

1842(天保13)「吉原細見」星野屋源次郎 早稲田大学古典籍総合 https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991021078079704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=10

1844(天保15)「吉原細見」星野屋源次郎 早稲田大学古典籍総合https://waseda.primo.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay?docid=alma991001473209704032&context=L&vid=81SOKEI_WUNI:WINE&lang=ja&search_scope=MyInstitution&adaptor=Local%20Search%20Engine&tab=LibraryCatalog&query=title,contains,%5B吉原細見%5D&offset=0

アルテミジア・ジェンティレスキ

17世紀のイタリア人画家アルデミジア・ジェンティレスキ(Artemisia Gentileschi)の作品がボストン美術館(MFA)のロトンダに現れた。

The Sleeping Christ Child(1630-32)Artemisia Gentileschi
MFA accession numb
er:2022.102

《眠る幼子キリスト》。12.4 × 17.5 cm の銅板に油彩で描かれている。絵はがきサイズだ。クッションに頭を預けて無防備にあどけなく深い眠りの中にいる幼子イエス。なんともいえない愛おしい姿である。この稀に見る珠玉の小品を初めて見かけたときには、うれしさのあまり自分のほおが緩むのを抑えきれなかった。

以前この作品がオークションに出るという記事を見たことがあった。そのときはこの作品を元に制作された別の作家によるエングレービング作品《死の寓意》が添えてあった。版画の方は幼子のそばに頭蓋骨が置かれ、天使のように美しく幼い子どもにも何れ死は訪れるという、いわゆるメメント・モリをテーマにした作品だ。

Allegory on Death (制作年不明)  Jode II, P. de (1601-1674).
Engraving after Artemisia Gentileschi

版画は量産可能であるから人の目に触れる機会も多い。それでこちらが先に有名になったらしい。元となったジェンティレスキ作の幼子キリストは頭蓋骨を伴っておらず、眠る幼子の姿は生き生きとして、小さな胸の動きや静かな呼吸が聞こえてきそうだ。

まだ女性画家が少なかった時代、画家オラツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Gentileschi)の娘として生まれたアルテミジアは絵の天分とそれを家庭内で磨く幸運を得た。父親がカラヴァッジョと親しかったため、その技法を間近で学んだという点で、後に連なるカラヴァッジョに私淑したカラヴァッジョ派とは異なる。彼女の作品の明暗対比の強いテネブリズムやドラマティックで躍動感あふれるな画面構成などにその特徴は明確に現れている。

当時の創作現場はほぼ完全に男社会であり、とりわけカラヴァッジョの素行の悪さは有名だが、当時はそういうタイプの画家は少なくなかったようで、カラヴァッジョと親しかった父親周辺も悪評高い人間が取り巻いていたらしい。そんな中で娘である17歳のアルテミジア自身もセクハラの被害者となりレイプ裁判を起こしたことから、本業以外でも後世まで名が知れることになる。それでも彼女は描き続け画家としてのキャリアを高めていく。創作作業というのは何につけ重労働が多い。ロンドンでは父オラツィオの制作を引き継ぐ形とはいえ直径5メートル近くの天井画(キャンバスに油彩したのち板張り)などにも取り組んでいる。

アルテミジアの自画像を見ていると彼女は確かに現実社会に存在し、自己主張し、閉鎖的で理不尽な社会の壁を打ち破るべく戦った女性だと感じる。例えば、時代はかなり進むが18世紀にフランスに現れる女性画家ヴィジェ=ルブラン。マリー・アントワネットのお気に入りとなり爛熟のロココを強かに生きたようだが、嫋やかでファッショナブルな浮世離れした自画像をみると時代と文化環境の違いは大きいが、ここまで時代が経過しても女性画家は僅かだったのだ。

アルテミジアの作品は、テーマや画面構成、表現の細部に至るまで彼女の意思と肉体の強靱さが作品に憑依しているようで、見る者に強く訴えてくるもののがある。そんな彼女の繊細さと愛情深い眼差しが作り上げた小さな宝石のようなこの一作。
アルテミジア・ジェンティレスキは心身共に強く、そして美しい画家だったに違いない。

参考サイト
Artemisia Gentileschi 1630-32《The Sleeping Christ Child》ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/699323/the-sleeping-christ-child?ctx=0b6bdc9a-fe6d-4495-b1ce-7fc547bdb0ab&idx=0
Letizia Treves 2016 「Caravaggio: His life and style in three paintings」National Gallery of London https://www.youtube.com/watch?v=1KcdgFxmnb4
Orazio Gentileschi&Artemisia Gentileschi 1635-8 《An Allegory of Peace and the Arts》RCIN 408464, Royal Collection Trust
https://www.rct.uk/collection/408464/an-allegory-of-peace-and-the-arts
La Gazette Drouot: Jode II, P. de (1601-1674). Allegory on Death
https://www.gazette-drouot.com/en/lots/13709170-jode-ii-p.-de-1601-1674

ヤン・ファン・エイク風の水浴画

今回の作品は《Woman at Her Toilet》
ハーバード/フォッグ美術館2階、13−17世紀ヨーロピアンアートの展示室で観ることができる。

Woman at Her Toilet(16c初期)

一瞬にヤン・ファン・エイクの《アルノルフィーニ夫妻の肖像》を思い出した。もちろん細密画の頂点にいたヤン・ファン・エイクのそれとは全く異なる。
それでも興味を引かれた。

正面奥に消失点をとる部屋の幅と奥行きが『アルノルフィーニ夫妻の肖像』の部屋によく似た印象を与える。窓の位置や大きさ、女性たちの立ち位置、画面左手前にサンダルが一足あるのも似ている。室内は簡素。天井高の窓からの外光をうける2人は、窓枠にかけられた凸面鏡に写っている。裸の女性は凸面鏡の下に置かれた水を張った洗面器に右手を伸ばしている。手に握られているものを水で濡らして体を拭いていたのかもしれない。隣の着衣の女性は彼女に仕えるメイドのよう。手には球状のものが握られている。凸面鏡の下、出窓の床板にも同じようなもの球状のものが見える。そういえば《アルノルフィーニ夫妻の肖像》でも窓の下に数個のオレンジが置かれている。女性たちのプロポーションや衣装、部屋の雰囲気もフランドル派の特徴がみられる。

Portrait of Giovanni(?) Arnolfini and his Wife(1434)
National Gallery, LondonNG186)

作品に添えられたキャプションをたどってみよう。
タイトルは《Woman at Her Toilet》。トイレットは用を足す場所のイメージが強いが、バスルーム、洗面所、化粧室を兼ね備えた身支度をする場所、または少し古い言い方では身支度そのものも意味する。今回の作品の場面の女性は裸なので水浴の場面だろう。
画家名は未確認。生没年の欄に「フランドル派 c. 1390-1441」と、ヤン・ファン・エイクの生没年代(といわれる)が記載され、制作年は16世紀初頭とある。そして、ヤン・ファン・エイクの時代に水浴の場面がよく描かれとのこと。作品はその時代の作品を元に、16世紀初頭にコピーされたものだそう。寓意や道徳的な意味あいで制作され、識者の見解としてバテシバやイヴ、ヴィーナスのほか、ルクスリアやヴァニタスなどが描かれた可能性が指摘されている。

バテシバは旧約聖書サムエル記に登場する女性でまさに水浴中にダヴィデ王に見初められ、後に彼の妻となった。ヴァニタス(空虚)は旧約聖書の伝道の書(コヘレトの言葉)で語られるもので、メント・モリ(死を覚えよ)やホラティウスのカルペ・ディエム(その日を摘め)とともにたびたび画題とされる。骸骨・若者(若い女性も)・砂時計・切り花や果実など朽ちていく命に限りがあるものが描かれる。ちなみに伝道の書はダヴィデ王とバテシバの子ソロモン王(コヘレト)の著書といわれている。ルクスリア(性欲)は7つの大罪の一つ。そして創世記のイヴは誘惑や罪、ローマ神話のヴィーナス(ギリシャ神話のアフロディーテ)は愛と豊穣の女神などは最もポピュラーな画題といえる。

女性のヌードは古代ギリシャの時代から西洋芸術の主題として非常に多くの作品が残されている。ただどのような女性でも主題にできたわけではなく、寓意や道徳、宗教の教えを表現するという目的で、神話の女神や旧約聖書で語られるバテシバ、イヴ、ヴィーナスなどの女性像が使われてきた。神話や宗教、歴史など過去の出来事に主題を見いだす古典主義の時代は長く続き、そうした伝統的な絵画作法から解放されるのは、1800年頃に制作されたゴヤ作《裸のマハ》あたりからだろう。

さて14世紀終わりから15世紀半ばのフランドル派に由来するこの作品。この絵は何を表現しているのか。キャプションで述べられているようにとても謎めいた魅力がある。
メイドの持つ球体も気になります。アルノルフィーニ夫妻の富を象徴するオレンジに変わるものかもしれない。ちょうどリンゴくらいの大きさで真鍮色のような感じに見える。窓際の球体にはヘタがついているようにも見える。もし青リンゴだとしたら原罪でイヴも考えられる。アフロディーテの黄金の林檎(不和の林檎)の可能性は球体が2個という点で違う気がする。脱ぎ捨てた一足のサンダル。アルノルフィーニ夫妻は神聖な誓いの場として神の前でサンダルを脱いだ(出エジプト記3−5)と想像するが、この女性の場合はどうだろう。
画像で見ると部屋の奥の家具に何か置かれている。凸面鏡に写る2人の女性もはっきりしない。

謎めいている。

<参考サイト>
《Woman at Her Toilet》Harverd/Fogg Art Museum
https://harvardartmuseums.org/collections/object/227899?position=1

Jan van Eyck 1434《The Arnolfini Portrait》National Gallery, London
https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/jan-van-eyck-the-arnolfini-portrait

旧約聖書 サムエル記下11
https://www.bible.com/ja/bible/1819/2SA.11.新共同訳
旧約聖書 コヘレトの言葉1
https://www.bible.com/ja/bible/1819/ECC.1.新共同訳
旧約聖書 出エジプト記3
https://www.bible.com/ja/bible/1819/EXO.3.新共同訳

ピエロ・デッラ・フランチェスカの《キリスト生誕》2/2

ロンドンのナショナル・ギャラリー(以下NGL)の修復家による3年の作業を終えて公開された作品。修復したて特有のニートな印象に加えて、乳白色の釉薬でコーティングされているような、修復前に比べて絵画の精気が抑制されたというか、画面がフリーズしているような感じ。

The Nativity (early 1480s ) 修復後 
National Gallery, London(NG908)

多くの修復工程の中でとりわけNGLが熱狂を持って発表したのは「聖なる光の存在」。
朽ちかけた厩の屋根に一部草が生えているように見える部分がある。その下には腕を上げる羊飼い。そのちょうど頭の上の石積みの壁がぼんやりと白っぽく見える。キリストの生誕を告げる聖なる光が、屋根の穴を通って壁を照らしたために白くなったとのこと。羊飼いは光を指さし、ロバも光を見上げて嘶くように描かれている。

このことは作品の未完説にも関連している。人物に影がないことで未完と考える根拠とする専門家もいるからだ。NGLはピエロが聖なる光の存在を際立たせるために意図的に影をつけなかったという解釈をとり、この作品を完成作と結論づけた。

The Nativity(修復前・部分)
Maurizio Calvesi 1998「Piero della Francesca」

さて次は2人の羊飼い。
修復前に最もダメージを受けていたのが2人の頭部だった。右の図は修復前のもので確かに損傷は明らかだがデザインは残っているように見える。これを元に今回の修復では頭部がはっきり描かれている。赤褐色の肌の色については、羊飼いは戸外の労働による日焼け、そして白い肌の聖なる人々(聖母子や天使)とのちがいを表すためという見方もある。修復に関しては、ピエロのデザインをたどって細心の注意を払いながら作業したことを修復家自身が語った動画も公開されている。
たしかにこの2人は修復後の画面の中で特に異彩を放っている。他の部分と比較してスフマートがあまり使われず平面的にもみえる。

修復後に話題の中心となったのはまさにこの羊飼い。イギリスのThe Guardian誌は、2012年にスペイン・ボルハで起きた素人の修復により損害を受けた《この人を見よ》を引き合いに出し、今回の修復に対し辛辣な批判繰り広げた。挑発的な内容が興味をひいたのか、その直後からこの記事を引用した記事が多く出回った。

ソーシャルメディアのNGLへのコメントを見ると、一般の修復への評価は一様ではない。批判記事に同意する人もいれば、素晴らしい修復と称賛する声もある。

ところで現在のヨーロッパの修復法は、作家が完成したであろうところまで戻すことを第一義として、もし加筆が加えられる場合は修復で加筆したとわかるように行うという決まりがある。例えば、ダ・ヴィンチ作と取り沙汰されながら未だ謎に包まれたままの《サルバトール・ムンディ》も損傷が激しい作品がアメリカの著名修復家ダイアン・モデスティーニによる古さを感じないほどの加筆によって、どこまでがオリジナルかわかりにくい状態になった。そして高額売買後の真偽不詳のまま今や公開されてすらいない。

修復法やそれを踏まえた修復家の加筆の裁量は素人にはわからない部分。
羊飼いの話題に戻すと、修復によってより平面的に塗ったという印象の顔など、コンピュータの画面上で見ているだけの私だが、正直違和感はある。最初に述べたように作品全体の印象が変わったという点は、クリーニング後というレヴェルのことなのか私にはわからない。そしてこの作品が本当に完成作か否かという疑問もやはり拭えない。今回の修復が修復家の仕事として最大限正しかったのかもしれない。修復家の考える修復と私を含めた一般の人々の期待するそれは同じではないだろう。修復はその役割の性質上、必ずしも鑑賞者の想像通りには仕上がらないということを私たちは留意しなければいけない。

この修復への賛否をいえるほどの材料を私自身持ち合わせない。ただ、修復という仕事は、芸術作品を可能な限り長く後世まで伝えられるよう手助けするということだろうと理解している。つまり作家に成り代わることが仕事ではない。たとえどれほど深い研究と考察のうえにどんなに高度な技術でオリジナルデザインをたどっても、それを制作した人間が表現した魂まで再現することは誰にもできないのだから。

<参考文献>
Maurizio Calvesi 1998「Piero della Francesca」Rizzoli International Publications,In

<参考サイト>
Piero della Francesca 《Nativity》National Gallery, London
https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/piero-della-francesca-the-nativity

Jonathan Jones
https://www.theguardian.com/artanddesign/2022/dec/17/national-gallery-botched-restoration-nativity

ピエロ・デッラ・フランチェスカの《キリスト生誕》1/2

2022年12月ロンドンのナショナル・ギャラリー(以下NGL)で、修復を終えたピエロ・デッラ・フランチェスカの《キリスト生誕》が再公開された。現在、世界中の美術ファンの注目を浴びている。この注目の原因を探る前に、今回はこの作品のNGLに至る来歴を確認してみよう。

最初に作品の概略。テーマはキリスト誕生の場面、幼子キリストと聖母マリアと夫のヨゼフ、音楽を奏でる天使、羊飼いに牛とロバという、伝統的な降誕の様式に則ったものだ。背景には画家の出身地サンセポルクロの風景が描かれた。

The Nativity (1470–75) Piero della Francesca(修復前)
National Gallery, London 所蔵 *Wikipediaより

ピエロ・デッラ・フランチェスカはルネッサンス期1400年代のイタリア・トスカーナ出身の画家。生没年に諸説あるが、NGLのサイトでは 「about 1415/20 – 1492」と記載されている。

この作品の制作年もまた、多くの仮説がある。最も古い制作年として1470年、あたらしいものでは1480年代と、10年以上のばらつきがある。
左はWikipediaから引用した画像(修復前)でキャプションの制作年は「1470-75」となっている。今回は画像と一緒にその通り使用した。
NGLの現在のキャプションでは 「1480年代初期」と表記されている。
作品はピエロの地元サンセポルクロで描かれ没後も地元の親族宅にあった。1500年代の画家・美術史家のジョルジョ・ヴァザーリは実際にそこを訪問して作品を確認した記録が残っている。

この作品に動きが見えるのは制作から約300年を経過した1826年。相続人の一人であるジュゼッペ・マリーニ・フランチェスキが、この作品をフィレンツェのウフィッツィに売買のために預けている。NGLも「1825年まで地元の親族宅に作品があった」とするところからも、マリーニ・フランチェスキが初めてこの作品を移動させたと思われる。

1826年にはマリーニ・フランチェスキがウフィッツィのディレクター宛てに 「作品が経年劣化とそれまでの相続人の粗雑な扱いのために相当のダメージを受けている」という内容の書簡を送っている。ダメージのなかには加筆や蝋燭のあともあったとする研究者もいる。売り出す前提でウフィツィに預けたことからも、ウフィッツィにクリーニングも依頼した可能性も指摘されている。

このようにダメージのほかに欠損も目立つこの作品は「そもそも未完成作説」と、1800年代の強烈な「クリーニングによってダメージを受けた完成作」という説が存在する。

実際このクリーニング作業がウフィッツィ(フィレンツェ)で行われたとすれば、ルネッサンス期の作品に最も経験がある地で行われたということになる。それでもなお、クリーニングによる二次被害を被ったとなると、作品解釈、技術、薬品などいずれをとってもいつの時代においても修復という仕事は相当に難しいものなのだろう。

こうした作品の本質に関わる問題がありながらも1861年、この作品がNGLの初代館長の目にとまる。しかしこの時点では他のコレクターが購入しイギリスに持ち込んで修復する。1874年に晴れてNGLが購入したあと、1884年に同館としての最初の修復を行う。このあと1949ー1950年にも修復が行われ、3度目となった今回の修復を終えたNGLは、この作品が完成作品であると発表した。

次回はこの作品の修復後を見ながら話題の原因を探ってみる。

<参考文献>
Maurizio Calvesi 1998「Piero della Francesca」Rizzoli International Publications,In

<参考サイト>
Piero della Francesca《The Nativity》
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Nativity_(Piero_della_Francesca)
(画像, 2022/12/20閲覧)

ベルト・モリゾ

ベルト・モリゾといえばエドゥアール・マネが彼女をモデルに描いた《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》(1873)で知られる。しかしモリゾ自身も印象派の画家であり、近年はジャポニスムに影響を受けた画家の一人として研究が進んでいる。

さて、ベルト・モリゾの《髪を結ぶ少女》。モリゾは日常的な風景や家族間の親密な場面を捉えることが得意だった。この作品も、そんなモリゾの家庭的で穏やかな視線が感じられる。どこを見るともない少女の眼差し。慣れた手つき。彼女の意識は指先は集中しているようだ。

この作品は2017年に東京国立西洋美術館で開催された「北斎とジャポニスム展」において、北斎の『絵本庭訓往来』とともに取り上げられた。

Young Girl braiding her Hair(ca1893) Berthe Morisot
Ny Carlsberg Glyptotek, Danmark

次は北斎の『絵本庭訓往来』。モリゾの《髪を結ぶ少女》に影響を与えた作品とされる。
3人の女性が歯を磨いたり、体を拭き清めたり、髪を櫛で整えたりという女性の身繕いの様子が描かれている。『絵本庭訓往来』は初等教育のための今で言えばテキスト、衛生に関する基本的な習慣を取り上げているのだろう。

絵本庭訓往来 初編(1828)北斎 永楽屋東四郎版
ARC古典籍ポータルデータベース:#Ebi0912

この絵本、日常に観察眼を向けていたモリゾにとっては親しみが持てるテーマで、インスピレーションを掻き立てそうな風景だ。とはいえ、絵本庭訓往来の北斎もモリゾも、どこの国でも見られそうな普遍的な生活の場面を題材として扱ったわけで、この点だけをとって北斎作品からのインスピレーションによるモリゾ作品というのは少し性急な気がしなくもない。

ここで「北斎とジャポニスム展」から離れて、こちらはモリゾの同時期の作品《麦わら帽子の少女》。

Julie Manet with a straw hat*(1892)
www.wikiart.org

伏し目がちに座る麦わら帽子の少女。その右肩上の画中画が眼をひく。2人の人物。2人は水面に浮かぶ小舟の上に立っているように見える。前方の1人は胸元をV字に整えた青色の丈の長い衣装を身につけ、ウエストあたりを同系色の帯のようなもので止めている。印象派特有の筆触がよくみえるタッチでも東洋の雰囲気は見逃せない。そして浮世絵の夏の風物詩、隅田川の船遊び思い出す。青い衣装の人物が、上半身を捻りながら向きを変えているようなポーズもいかにも浮世絵風にみえるのだ。

この画中画に関しては現在のところ、2つの浮世絵版画の影響の可能性が指摘されている。
1作目は、鳥居清長の3枚続き《真崎の渡し舟(隅田川の渡し舟)》のうちの真ん中の作品で、女性2人と舳先が描かれた一枚。

A Ferry on the Sumida River 真崎の渡し舟(1787)鳥居清長
MFA Accession Number: 11.13875, 11.13902, 57.585

もう1作が日本では《大川端夕涼》と呼ばれる下の作品。同じタイトルで清長作もあるのだが、こちらは喜多川歌麿の作品。この場合もやはり真ん中の一枚がモリゾとの関わりを指摘されている。

Enjoying the Evening Cool Along the Sumida River( c. 1797–98)Kitagawa Utamaro
The Cleveland Museum of Art, The Fanny Tewksbury King Collection 1956.753

モリゾの画中画は2人とも船上の立ち姿。しかし清長の渡し舟の方は1人は舟に座っている。一方この歌麿作の方は2人とも立ち姿でしかも川縁を歩いているようだ。さらに、中心の女性は子供の手を引いているから登場人物が一人多い。しかし2人の女性の身体の向きがモリゾのそれとよく似ている。強いて言えば着物の色も、モリゾ作の後方の女性の着物が歌麿作の右側の女性の(経年褪色の可能性はあるが)それに近いようにもみえる。

モリゾ画中画で前に立つ女性に関しては、3作品いずれの女性も、体の向く方向に対して顔は反対側を向いている。この点は3作品に共通で美人画によく見られるポーズだ。
清長の女性など少し腰を屈めながらもやはり体と顔の方向は異なってる。歌麿作の女性は、肩を後ろにひいた反動で少し胸部を張った姿勢に上半身のひねりが加わった反り身と言われるポーズが見られる。これは歌麿女性の特徴と言われる。この点はモリゾ作の青い衣装の女性もよく似て見える。

モリゾは実際にいくつか浮世絵を所有しており、それらは歌麿や清長など美人画であったようだ。当時フランスで日本美術商として知られたジークフリート・ビングが1888年『芸術の日本』という月刊誌の刊行を始めた。そのなかには当時としては高品質印刷の図版も添付されていた。《 真崎の渡し舟》や《大川端夕涼》の3枚続きのうちの左から2枚も添付されていて、モリゾが所有していたと言われる。そして1890年にビングがフランスの国立美術学校で日本版画展を主催した際もモリゾは訪れており、清長の同作品はこの版画展に出品されカタログにも掲載されていた。モリゾはこうした経験から色彩版画にも興味を持ち自らも制作を試みた。

さて《髪を結ぶ少女》に戻ろう。
一心に髪を整える少女の右最上部、開かれた扇がさりげなく描かれている。青の濃淡と竹生のような要や骨の配色から日本の扇の雰囲気が漂う。そして少女の後ろは左約3/4をブラウン系の壁紙のような背景で占めているが、それを縦割りにした1/4の細長いスペースは薄い白っぽい黄土色(砥粉色)が使われている。
そして、《麦わら帽子の少女》においても少女の背景の分割も気になるところだ。

さて、ここまで2つのモリゾ作品と3つの浮世絵を見てきた。
浮世絵のような画中画や扇は、西洋的風景の中にアクセントとして添えられたモリゾの日本趣味とも言える。しかし《髪を結ぶ少女》の縦割りのスペース、《麦わら帽子の少女》の画面分割からは、西洋絵画に日本絵画の画面構成や色使いなど技術的要素を取り入れようとするモリゾの試みが見受けられる。縦長の面は引き伸ばされれば線となり、線の仕事を知らしめた浮世絵にたどり着く。ジャポニスムを研究し実践を試みるなかでモリゾは西洋絵画と異なる「線」の効果を見いだしたのだろう

ベルト・モリゾの作品もジャポニスムの影響を受けた画家として、今後さらに多くの研究が進み、取り上げられると想像している。

*この作品をネット検索すると同一画像の多くが《麦わら帽子のジュリー・マネ》というタイトルになっている。ジュリー・マネとはベルト・モリゾとウジェーヌ・マネ(絵も描いた、エドゥアール・マネの弟)の一人娘。ジュリー・マネについては、母モリゾはじめ多くの印象派画家の肖像画が残されており、それらに見られる彼女の特徴はこの少女とは異なっている。吉田典子氏もこの作品はプロのモデルを使っていることにも言及している。

参考資料
《Young Girl braiding her Hair》Ny Carlsberg Glyptotek(ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館)https://www.kulturarv.dk/kid/VisVaerk.do?vaerkId=105137
(2022年11月29日閲覧)

《A Ferry on the Sumida River 真崎の渡し舟》Museum of Fine Art Boston
https://collections.mfa.org/objects/682351/a-ferry-on-the-sumida-river?ctx=c143ecdc-69d6-4114-b5d0-5d01d8aaa6ce&idx=15
(2022年11月30日閲覧)

《Julie Manet with a straw hat》(1892)
https://www.wikiart.org/en/berthe-morisot/julie-manet-with-a-straw-hat-1892
(2022年11月25日閲覧)

『Enjoying the Evening Cool Along the Sumida River』 c. 1797–98
The Cleveland Museum of Art, The Fanny Tewksbury King Collection 1956.753

国立西洋美術館 2017「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」読売新聞東京本社

吉田, 典子 2014「ベルト・モリゾと日本美術(2):麦わら帽子の少女における浮世絵の画中画について」『Stella』33, pp.213-236.  Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université du Kyushu

ターナーの「印象」

ボストン美術館(MFA)で、同館所蔵のターナー作品として唯一公開されているのが《奴隷船》(2022年12月現在)だ。

Slave Ship(1840) Joseph Mallord William Turner
MFA Accession# 99.22

光と色の混合に燃えるような筆致。それらが醸し出す靄のかかった画面は遠くからでも一目でターナーの作品とわかる。左右に異なる表情を見せる空と前面に盛んに荒れ狂う海の境目は、黄色と赤褐色の燃え立つ炎と沈みゆく太陽の交わりが劇的な風景を描き出している。そんな激動する水面に、夕方の日差しに染まる難破船が頼りなげに漂っています。手前には、波に抗する魚の群れと海に放り出された奴隷たち。自然の猛威の前では人間の力など及びようもない。

この作品は、海難事故の保険金目当てに船上の病人や死人を海に放り出したイギリス船の実話を元にした18世紀の詩にインスピレーションを得て描かれたそうだ。1840年にロイヤルアカデミーで公開され、その際にはターナーの未完成で未公開の「Fallacies of Hope(偽りの希望)」(1812)という詩も添えられていた。

ところで、ターナーは1818年にイタリア旅行の機会を得る。多くの特に北ヨーロッパの芸術家が経験するイタリアの光の洗礼をターナーも受けたのだろう。つまり、この旅を契機に彼の画面の明度が高まった。そしてこのころから、モチーフは具象というよりもターナーが受けた「印象」のままに描かれていくのだ。1838年にはイギリス国民が愛してやまない絵画《戦艦テメレール号》、1840年の《奴隷船》、そして3年後の1843年にはゲーテの理論を表現した『光と色』が発表されている。フランス印象派の始まりとされるモネの《印象・日の出》(1872)からは約30年先をいった印象表現が行われていたのだ。

この作品の来歴について少し。
1843年ターナーの代人からの最初の購入者はジョン・ジェームス・ラスキンといい、息子ジョン・ラスキンのために購入した。ジョン・ラスキンは美術評論家として、コレクターとして、さらにラファエル前派の擁護者として、ヴィクトリア期のイギリス芸術には頻出する人物。ジョン自身若い頃からターナーとの交流があった。そしてこの作品を、ターナーを不朽たらしめる一作と評している。

1869年ラスキンは本作品《奴隷船》をロンドンで売却することに失敗し、1872年にニューヨークでアメリカ人に売却する。その後も数回のアメリカ国内での売買をへて1899年ボストン美術館が購入し現在に至っている。

ところでMFAではもう一作、個人蔵のターナー作品が展示されている。

左 Ancient Italy(about 1838) 個人蔵
右 Slave Ship(1840)MFA所蔵

この2点、制作年に数年の差があるが画面構成がとてもよく似ている。《Ancient Italy》はローマ帝国に思いをはせた詩にちなんだ作品とのことで、手前に描かれた水揚げした戦利品らしきものや武装した人々が非武装の男を移動させている様子などに戦いの時代が垣間見られる。一方で強い光が作り出した靄のベールに包まれた美しい都市景観や、船着き場に座って肩を寄せ合う女性たちの存在のせいか、どこか穏やかな時間の流れも感じられる作品だ。

<参考サイト>
Joseph Mallord William Turner《Slave Ship (Slavers Throwing Overboard the Dead and Dying, Typhoon Coming On)》ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/31102/slave-ship-slavers-throwing-overboard-the-dead-and-dying-t?ctx=b4e1dd76-f897-4ade-95aa-51a6d85b4e20&idx=0

浮世絵とクリムト2

クリムトの署名についてもう少し深めてみよう。アーティストにとって署名は自らが制作者であることを伝える意味をもつ。著作権の主張。署名したアーティストによる完成した作品であるという保証にもなる。

Portrait of Hermine Gallia (1904)
National Gallery London(NG6434)

こちらは《ヘルミーネ・ガリアの肖像》。

署名は正方形の地色はブルーパープル、文字はゴールド。ガリアの背景もブルー系だが全体にシルバーで覆っているため靄がかかったようにトーンダウンしている。しかし署名のブルーパープルにはシルバーを乗せていない。そのため署名は鮮やかなブルーパープルの正方形で目を引くのだ。

モノグラムはないが落款風の署名スタイルは《エミリア・フレーゲの肖像》(1902)と同じ形式。そして作品サイズがほぼ等身大(170.5 × 96.5 cm)というのも共通だ。

この署名は右上、モデルのほぼ頭頂の高さに合わせている。通常絵画の署名の多くは作品の下方だが、鑑賞者にとってこの位置はガリアの目に導かれながら容易に目に入るだろう。

クリムトの落款風署名は、主に当時のウィーンの中流・資産家知識階級の女性肖像画に見られる。

さて1905年、クリムトは自ら率いたウィーン分離派を離脱する。とはいえクリムトの名声は1900年初めにはすでに確立されており、パトロンたちにとってはクリムトのモデルとなりその肖像画をウィーン社交会のメンバーが訪れる自邸宅の壁に飾ることは、彼らのステイタスを高めるものだったようだ。

《マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像》(1905)や《フリッツア・リードラーの肖像》(1906)、《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》(1907)などの署名は画面下方置かれているが、やはり位置も色選びも独特だ。

ヘルミーネ・ガリアはウィーンの実業家夫人で、マルガレーテ・ウィトゲンシュタインの父は大資産家でウィーン分離派のスポンサーであり2人の弟はピアニストのパウルと哲学者のルートヴィッヒ。フリッツア・リードラーは高級官僚夫人。映画「Woman in Gold」(2015)で知られるアデーレ・ブロッホ=バウアーも実業家夫人。こうした人々がウィーン分離派やウィーン工房の活動を後押ししていた時代だったのだ。

クリムトにとっては目立つ署名は、ウィーン芸術の近代化をリードするアーティストとして独自のスタイルで描いた作品の制作者であることを一目瞭然の署名で宣言することで、新たな潮流をアピールする絶好の機会だったのだろう。

最後にもういちど《ヘルミーネ・ガリアの肖像》のブルーパープルにゴールドの落款風署名に戻ってみよう。実を言えば第一印象が紺紙金泥の写経だった。濃いめの青と金色は相性がいいうえクリムトも好んでいた二色だ。何の根拠もないけれど、クリムトは古い紺紙に金泥で書かれた法華経なども見ていたのかもしれない。

<参考サイト>
Sarah Herring 2022 「Why do artists sign their works of art?」National Gallery London
https://www.youtube.com/watch?v=PQqSjrz29eU

《Portrait of Hermine Gallia》National Gallery London
https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/gustav-klimt-portrait-of-hermine-gallia