ガラス絵とは

板ガラスの裏側から泥絵具や油絵具を使って描かれたものをガラス絵(ビードロ絵)という。裏から描いて表から鑑賞するものだ。

泥絵具とは、天然の土や貝殻を砕いて粉末状にしたものに膠を混ぜたもので、江戸時代は芝居の看板絵や絵馬の制作に使われた。不透明で濁った色と質感から油絵具に似たものと捉えられ、幕末から明治初期のガラス絵などに使われたそうだ。

ガラス絵は木版画の彫りと同じように元絵の裏側の図柄を描くわけだが、泥絵具は濃度があり筆致が残るため、表側から見える仕上がりを意識して、通常とは逆の順番で描いたようだ。

ガラス絵は当時国内で唯一海外に開かれていた長崎からもたらされた。江戸時代に長崎を通して中国のガラス絵が輸入され長崎派の画人が創作をはじめた。1570年の開港以来長崎にはさまざまなガラス製品が輸入されていて、ガラス絵の技術は長崎の職人にも受け入れやすかったのだろう。次第に江戸にも伝えられ浮世絵の美人画などを画題として制作された。

ガラス絵のサンプルを収集するべく、収蔵されていそうなオンラインサイトの検索を続けているが信頼にたる情報には出会えていない。錦絵に比べれば制作数が少ないことは覚悟していたが、加えてガラスは壊れもの、今日まで残る(残す)ことはなかなか難しいのかもしれない。


<参考文献>
小林忠「泥絵」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
東京芸術大学大学院文化財保存学日本画研究室編 2007「泥絵具」日本画用語事典 東京美術
 

《谷風》ガラス絵

ガラス絵の内容をみていこう。

まず画面向かって右上に画題「谷風」とある。青の背景に黒字で書かれている。ガラスの反射もあって少し見にくい。この作品が谷風を描いていることは、この力士の廻しを見るだけで一目瞭然だ。今で言う化粧廻しの形だが図柄はなく、谷風という名前だけ書かれている。実際の江戸時代の力士はどうだったかわからないが、相撲絵では名前だけの化粧廻しはよく見かける。

右側、化粧廻しの下がり(総:ふさ)の少し上に、「春英画」の署名と2つの印影のようなものが描かれている。

「谷風」E.Takino氏所蔵

2つとも陽文風。小さい方は黒字の円のなかにはハッキリと「極」と読める字が描かれている。改印による出版規制最初期、1790(寛政2)年〜1804(文化1)年に使われた印影を模したようだ。一方、それより大きく赤字で描かれた方は、私を書いたのか判別不明。漢字の知識がない人が漢字らしく、印影らしく描いたものように見える。この2つの印は一部重なるように置かれていて、見る側からは、黒字の「極」のほうが赤の上になっている。ガラス絵の特徴から、つまり赤が黒のあとに描かれたようだ。
とはいえ、現段階では画像を拡大してみているので、この点は実際に作品を見て確認することが重要だとおもう。

「谷風」E.Takino氏所蔵

もう一つ、谷風の右足元、内側にも印影を模したものが描かれている。これはかすかに見える状態でも記憶が蘇る板元だ。蔦屋重三郎などと並ぶ大手の錦絵版元、西村屋与八の永寿堂の印を模したものとわかる。

ここまでをまとめるとこうなる。
画題:谷風
絵師:勝川春英
改印ほか:極・?
板元:永寿堂・西村屋与八

ガラス絵

初のガラス絵。

ガラス絵は全くの無縁だ。ガラス絵には美人画が多いという知識ぐらいしかない。ところが今回はなんと相撲絵。これもまたこれまで縁がなかったジャンルだ。

実はこの作品、同じ州に住む友人が所有しているもの。私が浮世絵に興味を持っていることから「これ、本物かしら?」と相談を受けたのだ。

「谷風」E.Takino氏所蔵

私は鑑定はできないが、ガラス絵に触れる機会はかなり稀なことだし、よろこんで画像をいただいた。

早速オンライン上でガラス絵作品を探すも、とにかく情報が少ない。あってもオンラインオークション。

そこで、元絵があったと仮定して、限りなくこのガラス絵に似た錦絵を探すことにした。

磬子 Zoom in

磬子の彫物を拡大して見てみた。

BlueIndexStudio所蔵

美しい彫りで驚いた。彫刻刀は迷いもなく動いて、一気に彫られたことがわかる。

「屋」の3画目や5画目などの入筆部、「重」の4画目の折れに黒色部分が見える。これは下書き文字の墨の掘り残しだろう。

きちんとした書で、字間や文字の大きさもバランスよく取れているところから、筆耕者、またはそれに準ずる技術を持つ人が下書きをしたうえを彫ったと考える。

アメリカのアンティークサイトなどで見られる同サイズ程度の磬子には、このような整った彫りはほとんど見かけない。彫り師が下書きなしのフリーハンドで直彫したような、文字として美しいとは言えない仕上がりが多い。

このようにきちんと、丁寧に手順を踏んでいるにもかかわらず誤りに気づかなかったのは不思議だ。

完成して過ちに気づいたものの時間の余裕がなく修正されずに寄進されたと考えるのは、寄進という目的から推測すると、可能性が低いだろう。
新たな磬子を作り直して寄進しこの磬子は工房に残っていて、後年、明治の廃仏毀釈などで外に出る機会を得たのかもしれない。それで破壊されずに今日至っているならば、かなり運のいい磬子だ。

申と甲

今回も磬子の彫物について。

BlueIndexStudio所蔵

この胴体部分の外側上部の彫り込み。
問題は「安永三年申午」

恥ずかしながら全く気がつかず、この謎解きをシェアしていた学生時代のゼミ仲間Iさんが指摘してくれた。

問題は「申」。

画像で安永三年(1774)の次に「申(さる)」がある。その次は「午(うま)」。これでは十二支が2つ並んでいることになる。通常は元号年の次に十干と十二支が並ぶ。

安永三年の干支は甲午。

甲を申と誤って彫ったのだ。縦画の彫り違いはありそうなこと。さらにIさんは、刻印された時期が年号と干支を組み合わせて使用することがなくなった時代の可能性も指摘してくれた。つまり年号と干支のセット使用が一般的ではなくなった時代ならば、こうした彫り間違いやうっかりミスもあるのではないかという見解。

たとえば番付資料などを見ていると、明治の初期は元号年と干支(十干十二支)の記載が多いが、その後徐々に元号年と十二支のみとなり、明治中期には元号年だけの表記も出始めている。ただ、他の資料を見ていても、ある時点で一斉に様式が変わったというものでもなさそうで、かなり長期にわたって混在していたように見えるのだ。

甲を申と掘り間違えたことがこの磬子の流転のきっかけだったのかもしれない。


謎だらけの磬子どの

前回に続き、磬子の刻印についてです。

BlueIndexStudio所蔵

これは胴体部分ではなく、真上から見える縁に刻印されている。つまり胴体の厚みの部分に4文字の漢字が見えるのだ。

「作  金 竜☆」

最初の「作」は他の字よりも小さめ。そのあと一文字目は「金」、余白を置いて「竜」、次の最後の文字が「華」か「辛」のようにみえるが判然としない。並びとしては氏名のようだ。

中国・韓国出身の年配の友人たちにも見せたが、予想できる文字を試し書きしながらも首をかしげるばかり。「韓国の名前っぽい」というところで話が行き詰まってしまった。

とにかくこれが金竜☆という職人の落款と見てよいだろう。この金なにがしが大和屋重作の依頼で安永3年9月13日の寄進のためのこの磬子を制作したと仮定できそうだ。




 

磬子の彫物

今回は磬子の彫物を見ていこう。

ところで、この磬子素材。見た目の印象ではブロンズ。表面は漆がけのようで艶がある。

BlueIndexStudio所蔵

側面上部の刻字。右から「大和屋重作 安永三年申午九月十三日」

安永三年、1774年、江戸時代中期だ。

大和屋といえば商人の屋号として時代劇でも聞く機会が多い。
大店の主が菩提寺に寄贈したものかもしれない。

江戸時代の大和屋重作をオンライン検索したが、成果がなかった。
あまりによくある屋号で逆に難しいのかもしれない。

磬子


こちらの磬子。

BlueIndexStudio所蔵

近所のジャンク屋(親しみを込めてこう呼ぶ)Phillの店で写した画像。個人宅の仏壇のお鈴サイズではない。

実寸は、直径47.8cm, 深さ40cm, 胴回り160cm

磬子と書いて「けいす」とも「きんす」さらに「大徳寺りん」とも読むそうだ。
知らなかった。
そして新しいものはオンラインショップ楽天でも見かけた。自宅用に購入するというのは一般的ではないだろうから、やはりお寺さんをターゲットにしているのだろう。今時はこうしたものもオンラインショッピングするのだと、これまた初めて知った。


あたらしい同居

ウチはたびたび同居が増える家だが、今回は少しスケールが違う。

いつもの近所のジャンク屋さん。
大型品が置かれるスペースの真ん中、古い看板や用途が判然としない謎のもののなかに、なんだか見覚えのある色と形。どうみてもお寺のご本堂におられる方。

地面に直置きされている。
あっけにとられて呆然と見ている私に店の主人は「ねえねえ、なんて書いてるのー?」たびたび立ち寄るうちに、勝手に私を日本・中国ものの鑑定人と決めている。漢字が読めると誰でも鑑定人になれるようだ。
「ほら、ガラスボードのせるとおしゃれなコーヒーテーブルになるし、植木のカバーにもなるよね〜」「でも、ちょっと座りが悪いから底を平らにしないと!」
あきらかに何者かを知らないで店頭に並べている。

お労しいと思いながらもそのまま帰宅。
翌朝、うちのM「なんか、呼ばれてる気がする…」

そして一時間後、快適な移動を提供するために持参したビーチタオルにくるまれたお姿のまま、落ち葉が散り始めた芝の上に鎮座。

まずは長旅の身を清めていただき、我が家に同居と相成り候。

国芳 vs 国貞(MFA)

美術展で実際に五感を駆使して作品にふれる経験にまさるものはない。ものによっては作品に対峙すると平面作品でも立体造形のように感覚になることもある。そして本物を直に見る経験からはいつも様々な発見があるのだ。

ところで日本の美術館や博物館では撮影禁止が一般的なようだが、欧米ではフラッシュ禁止でも通常の撮影は許可している美術館が多い。
ボストン美術館(MFA)も後者。国芳国貞ボストン展も通常撮影は可能。

Iwai Kumesaburo II as Agemaki – 二代目岩井粂三郎の揚巻

角度を傾けて撮影した展示作品
William Sturgis Bigelow Collection, 11.26730

出版年:1829 (文政12) 頃
署名:香蝶楼国貞画
摺物
William Sturgis Bigelow Collection, 11.26730

「助六所縁江戸桜」は市川団十郎家の十八番で、現代歌舞伎の中でも特に人気の高い外題だ。主人公助六は江戸の粋を体現する男前の役どころ。揚巻はそんな助六にふさわしい最高の傾城。実際の歌舞伎の場面でもその佇まいは贅を尽くした出で立ちで際立つ美しさが表現されるが、錦絵においても同様に手を変え品を変え豪奢に描かれるテーマだ。

さて揚巻の頭上に描かれた枝垂れ桜。江戸桜という外題からも桜は欠かせない。実はこの作品は3枚続きの中の1枚で他の2枚には助六と新兵衛が描かれており、たぶん歌舞伎の舞台(現代も)同様に3作品を通して上部は桜で飾られている。この桜の輪郭が空摺(エンボス)で表現されているのだ。

この空摺はカタログでも見えますが、実際に見ると一層くっきりと深く、今刷り上がったばかりのような空摺りなのだ。このようにふっくらと摺りあがっているのも、今見ても上質とわかる厚手の奉書紙が使われたためだろう。やはり特別発注として作られる摺物は使われる素材も本当に贅沢だ。



Actor Iwai Hanshiro V as Yaoya Oshichi (From the series Great Hit Plays) – 大当狂言内 八百屋お七 五代目岩井半四郎」

角度を傾けて撮影した展示作品
William Sturgis Bigelow Collection, 11.15096

出版年:1814 – 15 (文化11−12) 年頃
署名:五渡亭国貞画
版元:川口屋卯兵衛
改印:極
William Sturgis Bigelow Collection, 11.15096


恋人に会いたい一心で事もあろうに放火をして火刑に処された八百屋の娘お七。江戸初期の実在の話とも言われている。この悲恋は多くの物語や戯曲となり浄瑠璃や歌舞伎でも人気を博した。五代目岩井半四郎のお七は特に当たり役となり、この作品の長襦袢でもみられる「麻の葉鹿の子」柄をお七の柄として後世にまで残した歴史に残る女形だ。江戸の若い娘らしい利発な目元が印象的だ。

さてこのお七の頭上が何やら光っている。これは胡粉が使われたためだ。カタログなどでは、鼠色っぽい塗り壁がまだらに剥げたような感じをよく見かける。実際に見ると銀色に光る胡粉がしっかり残っているのだ。

このシリーズは大人気の出し物の役者を一人づつ描いたもので、シリーズを通して胡粉が使われている。シリーズものはコレクター心をくすぐるうえに、高価な胡粉など使えば高級感が出る。普段の錦絵よりは高価な値段で特別な機会に販売されたと想像する。版元もいろいろ考えるものだ。

ちなみにこの展覧会ではもう一作、同じく国貞作の火の見櫓に登るお七も展示されている。お七は四代目市川小団次。お七の柄「麻の葉鹿の子」の振り袖姿だ。1856 (安政3) 年出版なのでここで取り上げた作品から約40年を経て作られた作品ということになる。

このように、ささやかな発見を記録できるという意味では会場での作品撮影は助かるのだ。しかし熱心な鑑賞者の邪魔にならないように速やかにアングルや近距離のピントを合わせるのは、少なくとも私にとってはなかなか容易ではない。やはり写真撮影は必要最低限十分。肉眼で見る、体感するのがオリジナルを見る醍醐味だ。

<参考文献>
MFA Boston 2017「KUNIYOSHI  x KUNISADA」MFA Publications