ベルト・モリゾ

ベルト・モリゾといえばエドゥアール・マネが彼女をモデルに描いた《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》(1873)で知られる。しかしモリゾ自身も印象派の画家であり、近年はジャポニスムに影響を受けた画家の一人として研究が進んでいる。

さて、ベルト・モリゾの《髪を結ぶ少女》。モリゾは日常的な風景や家族間の親密な場面を捉えることが得意だった。この作品も、そんなモリゾの家庭的で穏やかな視線が感じられる。どこを見るともない少女の眼差し。慣れた手つき。彼女の意識は指先は集中しているようだ。

この作品は2017年に東京国立西洋美術館で開催された「北斎とジャポニスム展」において、北斎の『絵本庭訓往来』とともに取り上げられた。

Young Girl braiding her Hair(ca1893) Berthe Morisot
Ny Carlsberg Glyptotek, Danmark

次は北斎の『絵本庭訓往来』。モリゾの《髪を結ぶ少女》に影響を与えた作品とされる。
3人の女性が歯を磨いたり、体を拭き清めたり、髪を櫛で整えたりという女性の身繕いの様子が描かれている。『絵本庭訓往来』は初等教育のための今で言えばテキスト、衛生に関する基本的な習慣を取り上げているのだろう。

絵本庭訓往来 初編(1828)北斎 永楽屋東四郎版
ARC古典籍ポータルデータベース:#Ebi0912

この絵本、日常に観察眼を向けていたモリゾにとっては親しみが持てるテーマで、インスピレーションを掻き立てそうな風景だ。とはいえ、絵本庭訓往来の北斎もモリゾも、どこの国でも見られそうな普遍的な生活の場面を題材として扱ったわけで、この点だけをとって北斎作品からのインスピレーションによるモリゾ作品というのは少し性急な気がしなくもない。

ここで「北斎とジャポニスム展」から離れて、こちらはモリゾの同時期の作品《麦わら帽子の少女》。

Julie Manet with a straw hat*(1892)
www.wikiart.org

伏し目がちに座る麦わら帽子の少女。その右肩上の画中画が眼をひく。2人の人物。2人は水面に浮かぶ小舟の上に立っているように見える。前方の1人は胸元をV字に整えた青色の丈の長い衣装を身につけ、ウエストあたりを同系色の帯のようなもので止めている。印象派特有の筆触がよくみえるタッチでも東洋の雰囲気は見逃せない。そして浮世絵の夏の風物詩、隅田川の船遊び思い出す。青い衣装の人物が、上半身を捻りながら向きを変えているようなポーズもいかにも浮世絵風にみえるのだ。

この画中画に関しては現在のところ、2つの浮世絵版画の影響の可能性が指摘されている。
1作目は、鳥居清長の3枚続き《真崎の渡し舟(隅田川の渡し舟)》のうちの真ん中の作品で、女性2人と舳先が描かれた一枚。

A Ferry on the Sumida River 真崎の渡し舟(1787)鳥居清長
MFA Accession Number: 11.13875, 11.13902, 57.585

もう1作が日本では《大川端夕涼》と呼ばれる下の作品。同じタイトルで清長作もあるのだが、こちらは喜多川歌麿の作品。この場合もやはり真ん中の一枚がモリゾとの関わりを指摘されている。

Enjoying the Evening Cool Along the Sumida River( c. 1797–98)Kitagawa Utamaro
The Cleveland Museum of Art, The Fanny Tewksbury King Collection 1956.753

モリゾの画中画は2人とも船上の立ち姿。しかし清長の渡し舟の方は1人は舟に座っている。一方この歌麿作の方は2人とも立ち姿でしかも川縁を歩いているようだ。さらに、中心の女性は子供の手を引いているから登場人物が一人多い。しかし2人の女性の身体の向きがモリゾのそれとよく似ている。強いて言えば着物の色も、モリゾ作の後方の女性の着物が歌麿作の右側の女性の(経年褪色の可能性はあるが)それに近いようにもみえる。

モリゾ画中画で前に立つ女性に関しては、3作品いずれの女性も、体の向く方向に対して顔は反対側を向いている。この点は3作品に共通で美人画によく見られるポーズだ。
清長の女性など少し腰を屈めながらもやはり体と顔の方向は異なってる。歌麿作の女性は、肩を後ろにひいた反動で少し胸部を張った姿勢に上半身のひねりが加わった反り身と言われるポーズが見られる。これは歌麿女性の特徴と言われる。この点はモリゾ作の青い衣装の女性もよく似て見える。

モリゾは実際にいくつか浮世絵を所有しており、それらは歌麿や清長など美人画であったようだ。当時フランスで日本美術商として知られたジークフリート・ビングが1888年『芸術の日本』という月刊誌の刊行を始めた。そのなかには当時としては高品質印刷の図版も添付されていた。《 真崎の渡し舟》や《大川端夕涼》の3枚続きのうちの左から2枚も添付されていて、モリゾが所有していたと言われる。そして1890年にビングがフランスの国立美術学校で日本版画展を主催した際もモリゾは訪れており、清長の同作品はこの版画展に出品されカタログにも掲載されていた。モリゾはこうした経験から色彩版画にも興味を持ち自らも制作を試みた。

さて《髪を結ぶ少女》に戻ろう。
一心に髪を整える少女の右最上部、開かれた扇がさりげなく描かれている。青の濃淡と竹生のような要や骨の配色から日本の扇の雰囲気が漂う。そして少女の後ろは左約3/4をブラウン系の壁紙のような背景で占めているが、それを縦割りにした1/4の細長いスペースは薄い白っぽい黄土色(砥粉色)が使われている。
そして、《麦わら帽子の少女》においても少女の背景の分割も気になるところだ。

さて、ここまで2つのモリゾ作品と3つの浮世絵を見てきた。
浮世絵のような画中画や扇は、西洋的風景の中にアクセントとして添えられたモリゾの日本趣味とも言える。しかし《髪を結ぶ少女》の縦割りのスペース、《麦わら帽子の少女》の画面分割からは、西洋絵画に日本絵画の画面構成や色使いなど技術的要素を取り入れようとするモリゾの試みが見受けられる。縦長の面は引き伸ばされれば線となり、線の仕事を知らしめた浮世絵にたどり着く。ジャポニスムを研究し実践を試みるなかでモリゾは西洋絵画と異なる「線」の効果を見いだしたのだろう

ベルト・モリゾの作品もジャポニスムの影響を受けた画家として、今後さらに多くの研究が進み、取り上げられると想像している。

*この作品をネット検索すると同一画像の多くが《麦わら帽子のジュリー・マネ》というタイトルになっている。ジュリー・マネとはベルト・モリゾとウジェーヌ・マネ(絵も描いた、エドゥアール・マネの弟)の一人娘。ジュリー・マネについては、母モリゾはじめ多くの印象派画家の肖像画が残されており、それらに見られる彼女の特徴はこの少女とは異なっている。吉田典子氏もこの作品はプロのモデルを使っていることにも言及している。

参考資料
《Young Girl braiding her Hair》Ny Carlsberg Glyptotek(ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館)https://www.kulturarv.dk/kid/VisVaerk.do?vaerkId=105137
(2022年11月29日閲覧)

《A Ferry on the Sumida River 真崎の渡し舟》Museum of Fine Art Boston
https://collections.mfa.org/objects/682351/a-ferry-on-the-sumida-river?ctx=c143ecdc-69d6-4114-b5d0-5d01d8aaa6ce&idx=15
(2022年11月30日閲覧)

《Julie Manet with a straw hat》(1892)
https://www.wikiart.org/en/berthe-morisot/julie-manet-with-a-straw-hat-1892
(2022年11月25日閲覧)

『Enjoying the Evening Cool Along the Sumida River』 c. 1797–98
The Cleveland Museum of Art, The Fanny Tewksbury King Collection 1956.753

国立西洋美術館 2017「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」読売新聞東京本社

吉田, 典子 2014「ベルト・モリゾと日本美術(2):麦わら帽子の少女における浮世絵の画中画について」『Stella』33, pp.213-236.  Société de Langue et Littérature Françaises de l’Université du Kyushu

ターナーの「印象」

ボストン美術館(MFA)で、同館所蔵のターナー作品として唯一公開されているのが《奴隷船》(2022年12月現在)だ。

Slave Ship(1840) Joseph Mallord William Turner
MFA Accession# 99.22

光と色の混合に燃えるような筆致。それらが醸し出す靄のかかった画面は遠くからでも一目でターナーの作品とわかる。左右に異なる表情を見せる空と前面に盛んに荒れ狂う海の境目は、黄色と赤褐色の燃え立つ炎と沈みゆく太陽の交わりが劇的な風景を描き出している。そんな激動する水面に、夕方の日差しに染まる難破船が頼りなげに漂っています。手前には、波に抗する魚の群れと海に放り出された奴隷たち。自然の猛威の前では人間の力など及びようもない。

この作品は、海難事故の保険金目当てに船上の病人や死人を海に放り出したイギリス船の実話を元にした18世紀の詩にインスピレーションを得て描かれたそうだ。1840年にロイヤルアカデミーで公開され、その際にはターナーの未完成で未公開の「Fallacies of Hope(偽りの希望)」(1812)という詩も添えられていた。

ところで、ターナーは1818年にイタリア旅行の機会を得る。多くの特に北ヨーロッパの芸術家が経験するイタリアの光の洗礼をターナーも受けたのだろう。つまり、この旅を契機に彼の画面の明度が高まった。そしてこのころから、モチーフは具象というよりもターナーが受けた「印象」のままに描かれていくのだ。1838年にはイギリス国民が愛してやまない絵画《戦艦テメレール号》、1840年の《奴隷船》、そして3年後の1843年にはゲーテの理論を表現した『光と色』が発表されている。フランス印象派の始まりとされるモネの《印象・日の出》(1872)からは約30年先をいった印象表現が行われていたのだ。

この作品の来歴について少し。
1843年ターナーの代人からの最初の購入者はジョン・ジェームス・ラスキンといい、息子ジョン・ラスキンのために購入した。ジョン・ラスキンは美術評論家として、コレクターとして、さらにラファエル前派の擁護者として、ヴィクトリア期のイギリス芸術には頻出する人物。ジョン自身若い頃からターナーとの交流があった。そしてこの作品を、ターナーを不朽たらしめる一作と評している。

1869年ラスキンは本作品《奴隷船》をロンドンで売却することに失敗し、1872年にニューヨークでアメリカ人に売却する。その後も数回のアメリカ国内での売買をへて1899年ボストン美術館が購入し現在に至っている。

ところでMFAではもう一作、個人蔵のターナー作品が展示されている。

左 Ancient Italy(about 1838) 個人蔵
右 Slave Ship(1840)MFA所蔵

この2点、制作年に数年の差があるが画面構成がとてもよく似ている。《Ancient Italy》はローマ帝国に思いをはせた詩にちなんだ作品とのことで、手前に描かれた水揚げした戦利品らしきものや武装した人々が非武装の男を移動させている様子などに戦いの時代が垣間見られる。一方で強い光が作り出した靄のベールに包まれた美しい都市景観や、船着き場に座って肩を寄せ合う女性たちの存在のせいか、どこか穏やかな時間の流れも感じられる作品だ。

<参考サイト>
Joseph Mallord William Turner《Slave Ship (Slavers Throwing Overboard the Dead and Dying, Typhoon Coming On)》ボストン美術館
https://collections.mfa.org/objects/31102/slave-ship-slavers-throwing-overboard-the-dead-and-dying-t?ctx=b4e1dd76-f897-4ade-95aa-51a6d85b4e20&idx=0

浮世絵とクリムト2

クリムトの署名についてもう少し深めてみよう。アーティストにとって署名は自らが制作者であることを伝える意味をもつ。著作権の主張。署名したアーティストによる完成した作品であるという保証にもなる。

Portrait of Hermine Gallia (1904)
National Gallery London(NG6434)

こちらは《ヘルミーネ・ガリアの肖像》。

署名は正方形の地色はブルーパープル、文字はゴールド。ガリアの背景もブルー系だが全体にシルバーで覆っているため靄がかかったようにトーンダウンしている。しかし署名のブルーパープルにはシルバーを乗せていない。そのため署名は鮮やかなブルーパープルの正方形で目を引くのだ。

モノグラムはないが落款風の署名スタイルは《エミリア・フレーゲの肖像》(1902)と同じ形式。そして作品サイズがほぼ等身大(170.5 × 96.5 cm)というのも共通だ。

この署名は右上、モデルのほぼ頭頂の高さに合わせている。通常絵画の署名の多くは作品の下方だが、鑑賞者にとってこの位置はガリアの目に導かれながら容易に目に入るだろう。

クリムトの落款風署名は、主に当時のウィーンの中流・資産家知識階級の女性肖像画に見られる。

さて1905年、クリムトは自ら率いたウィーン分離派を離脱する。とはいえクリムトの名声は1900年初めにはすでに確立されており、パトロンたちにとってはクリムトのモデルとなりその肖像画をウィーン社交会のメンバーが訪れる自邸宅の壁に飾ることは、彼らのステイタスを高めるものだったようだ。

《マルガレーテ・ストンボロー=ウィトゲンシュタインの肖像》(1905)や《フリッツア・リードラーの肖像》(1906)、《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》(1907)などの署名は画面下方置かれているが、やはり位置も色選びも独特だ。

ヘルミーネ・ガリアはウィーンの実業家夫人で、マルガレーテ・ウィトゲンシュタインの父は大資産家でウィーン分離派のスポンサーであり2人の弟はピアニストのパウルと哲学者のルートヴィッヒ。フリッツア・リードラーは高級官僚夫人。映画「Woman in Gold」(2015)で知られるアデーレ・ブロッホ=バウアーも実業家夫人。こうした人々がウィーン分離派やウィーン工房の活動を後押ししていた時代だったのだ。

クリムトにとっては目立つ署名は、ウィーン芸術の近代化をリードするアーティストとして独自のスタイルで描いた作品の制作者であることを一目瞭然の署名で宣言することで、新たな潮流をアピールする絶好の機会だったのだろう。

最後にもういちど《ヘルミーネ・ガリアの肖像》のブルーパープルにゴールドの落款風署名に戻ってみよう。実を言えば第一印象が紺紙金泥の写経だった。濃いめの青と金色は相性がいいうえクリムトも好んでいた二色だ。何の根拠もないけれど、クリムトは古い紺紙に金泥で書かれた法華経なども見ていたのかもしれない。

<参考サイト>
Sarah Herring 2022 「Why do artists sign their works of art?」National Gallery London
https://www.youtube.com/watch?v=PQqSjrz29eU

《Portrait of Hermine Gallia》National Gallery London
https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/gustav-klimt-portrait-of-hermine-gallia

浮世絵とクリムト

黄金様式で知られるグスタフ・クリムトは19世紀末から20世紀初頭オーストリアを代表する画家だ。1897年には古典主義からの脱却を望む芸術家を率いてウィーン分離派(Wiener Secession)を立ち上げた。ウィーン芸術の近代化を目指しヨーロッパ各地で起こった美術と工芸の融合(Arts and Crafts Movement)をウィーンで率いたのはクリムトだった。

ヨーロッパではこの頃「ジャポニスム」といわれる日本趣味・日本美術ブーム。
浮世絵版画の認知は、海外最初の記録はフランスのF. ブラックモンと《北斎漫画》との出会いが始まりと言われている。年代については1856年、1859年など諸説ある。それより前の1851年には最初の国際博覧会がロンドンで開催されたが、日本最初の参加(ごく小規模)は1865年のパリ万博まで待たなければならなかった。そして日本政府としての正式参加は1873年のウィーン万博となった。浮世絵は当時の展示品リストに含まれている(西川, 2007)。この時日本パビリオンは大変な盛況で、ウィーン中が「扇」だらけになったという記録もある(西川, 2007)。こうした経緯から日本文化はクリムトの活動期には芸術家知識人などのあいだですでにある程度認知されていたと考えられる。

クリムトは1862年生まれ。1876年にはウィーン工芸学校で学んだ。父親は金細工師。後のウィーン近代化に向けた力強い活動からも、美術・工芸分野の世界的な動向を注視していたことがうかがえる。そして多くの芸術家同様に浮世絵版画を収集していた(Herring, 2022)。 

エミリア・フレーゲの肖像 (1902)
Wien Museum
Inventory number 45677

左は長年クリムトのパートナーであったファッションデザイナーのエミリア・フレーゲの肖像。平面的で意匠化された画面・配色などにジャポニスムの影響が見られる。

画面の右下に黄色と緑の正方形。

黄色の正方形は名前と姓が改行して書かれています。左右がきっちり合っていて、その下に一行分の空白を取り、最後に作品年を左右に二文字づつ分けて、中心に二文字分ほどの空白をとっている。

緑の正方形は、GとKでデザインされたモノグラム。ウィーン分離派のメンバーは全てモノグラムを持っており、現在のThe Vienna Secession公式サイト*でも見ることができる。

名・姓・作品年を改行しデザインされた署名には、同時期のもう一つの潮流アール・ヌーヴォーの特徴も見える。
しなやかな曲線・曲面と装飾で描かれる画面では文字デザインも入念に行われ、こうしたスタイルの署名は同時期のほかの作家作品でもたびたび見られる。しかしその多くは背景に溶け込むように、いわばあまり目立たない署名が一般的だ。

しかしクリムトの場合、その部分の地色を変えて背景から際立たせている。作品内に使われている二色を用いたとはいえ、黄色の地に黒の署名は特に引き立っていて、フレーゲのデコルテに描かれた幾何学模様以上に目を引く。

名所江戸百景 深川木場 (1856)
歌川広重 国立国会図書館

こちらは広重の《名所江戸百景 深川木場》。浮世絵版画では画題や絵師名などを様々な形に枠取りし、彩色をして際立たせる方法は頻繁に使われる。名所江戸百景シリーズでは、署名とシリーズ名は短冊型、サブテーマが正方形で、右上に2つ並べた赤と黄のタイトルは黒色のはいけいから一層引き立っている。

クリムトを語るとき、琳派との関連を取り上げられることが多い。このフレーゲ肖像の青・緑・黄の色使いにも琳派の雰囲気を感じる。落款風の署名は、肉筆書画の観察によるだろう。そしてクリムトも浮世絵を仕事場の壁にかけていた(Herring, 2022)ということも知られている。

クリムトが《名所江戸百景》を実際に見たかどうかはわからない。この名所画がクリムトのコレクションになかったとしても、浮世絵をはじめとする日本美術からのインスパイアを受けたことは想像に難くない。

クリムトにとってのジャポニスムは、さまざまな時代の潮流と相まった独自のスタイルを生み出すほどに昇華された。そのことがよく伺える肖像画だと思う。

参考文献

《Bildnis Emilie Flöge》Wien Museum
https://sammlung.wienmuseum.at/en/object/820521-bildnis-emilie-floege/

西川智之 2007「ウィーンのジャポニスム 1873年ウィーン万国博覧会」『言語文化論集 』27 (2) 名古屋大学大学院国際言語文化研究科

歌川広重《名所江戸百景 深川木場》国立国会図書館(NDL)デジタルコレクション(2022/10/03閲覧)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312342?tocOpened=1

博覧会 近代技術の展示場(2022/10/03閲覧)
https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/index.html

Sarah Herring 2022 「Why do artists sign their works of art?」National Gallery London
https://www.youtube.com/watch?v=PQqSjrz29eU

*The Vienna Secession公式サイト(2022/10/03閲覧)
(クリムトのこの作品のモノグラムは現在サイトで見られるデザインとは異なっている。)https://www.theviennasecession.com/monograms/

2022年の李禹煥(リ・ウーファン)

Covid後初の帰国中、乃木坂の国立新美術館で「李禹煥展」を観ることができた。
国立新美術館開館15周年記念というだけに、1960年代の作品から本年の作品まで一気に味わえる充実ぶり。

関係項ーアーチ(2022)国立新美術館, 東京

《関係項》は李禹煥が長年にわたって素材や表現を変えながら作り続けている。石、鉄板、ガラス、木材などから、近年はアクリルや液体なども加わっている。私たちはひとつの《関係項》に2つの素材を見ることが多いが、当然そこには創作者のモノとの関わりが隠れている。モノと環境の関係。何かと何かの関係 素材・質感の相違による関係。モノは置かれた状況や他のモノとの関係でも役割が変化する。あるいは本来の役割を失う。そしてそれを見る側の見方によっても変化する。

前回李禹煥作品を見たのは2007年のヴェネツィア・ビエンナーレ期間中Palazzo Palumbo Fissatiで開催されたの個展だった。

展示風景(2007)Palazzo Palumbo Fissati, Venezia 

李禹煥と私は余白の好みが近いのだ、と勝手に思っている。作品に取られる余白は空(くう)でも無でもなく、空気がながれ、見る側にいる私までもそれを感じるからだ。

余白と言えば思い出すのが書の余白。書は白と黒の世界。まだ私が十代になったばかりのころ、書の師匠は、書き上がったら余白をみるようにといっていた。つまり、余白が美しいとき私の書もよくかけていると。それから今に至るまで平面も立体も、余白を見ること、いわゆる図と地の観察が癖になっている。

李禹煥の平面作品には書の経験を感じる作品が多い。平行と垂直のバランス。《線より》など見ていると、書の創作と重ねて、どれぐらい息を止めて描いたのだろうと想像する。美しい余白、地と図の完璧なバランス。そのストイックな集中の後に押し寄せるであろう疲労と恍惚までも共有してしまう。

展示風景 (2007) Palazzo Palumbo Fissati, Venezia 

そしてどの作品でも、《風より》のような一見ランダムな筆跡に見える作品や、広い空間でのインスタレーションであっても、作品の完結の仕方に優れた書家の作法が感じられる。

草間彌生や村上隆が現代アート作家日本代表として世界的な活躍を見せて久しい2000年代に入ってからも、イタリアのアート関係者からは「具体」とか「もの派」という言葉を頻繁に耳にしたものだ。

などと考えながら、ふと、ミラノ在住でイタリアを中心に活躍された長沢英俊氏を思い出した。連絡をいただきながらお会いできずに終わったことが悔やまれる。

今回の李禹煥展、観客がひいた展示室で美術館員に「李先生はお元気ですか?」とこっそり聞いてみた。「はいっ!お元気ですよ。」との即答。作品に触れた満足感がより膨らんだ。

梅と桜

《梅王丸と桜丸》にも見られるように、梅と桜は並び称されることが多い花だ。

江戸時代以降の春の娯楽としての花見の普及もあり、現在は桜がより身近になっているが、はるか昔、桜より梅の方が人々の関心を集めていたと言われている。

梅から桜への人気の移行期は奈良〜平安時代らしい。その頃といえば和歌集の編纂が多く行われた時期だ。

例えば、平安時代初期に編まれた最初の勅撰和歌集『古今和歌集』。「大和歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞなりにける」の序文も有名。この和歌集は春の歌から始まる。和歌の題材としての梅と桜に注目してみよう。

巻第一「春歌上」と「春歌下」には168首の和歌が選ばれている。そこで、和歌の中の梅と桜それぞれの出現和歌数を調べてみた。

梅:「春歌上」15首、「春歌下」0首 計15首
桜:「春歌上」17首、「春歌下」18首 計35首

さらに、和歌のなかで「花」といいながら、詞書から梅、または桜を詠んだと理解できる和歌は次のとおり。

詞書から梅を詠んだと判断できる和歌:「春歌上」2首、「春歌下」0首 計2首
詞書から桜を詠んだと判断できる和歌:「春歌上」3首、「春歌下」4首 計7首

ちなみに、これらの中に混在するかたちで花の名前ではなく「花」を使う和歌もみられる:
「春歌上」9首、「春歌下」27首 計36首

最初の梅と桜の比較だけをとっても、桜の出現数が多いことが見て取れる。
つまり、平安時代の初めにはすでに桜の方が梅よりも身近な、あるいは琴線を揺さぶる花になっていたようだ。

参考文献
佐伯梅友 注 1958 「古今和歌集巻第一、巻第二」『古今和歌集 日本古典文学大系8』岩波書店



シタ売


豊国の錦絵《舎人梅王丸・舎人桜丸》に、縦型楕円の枠に「シタ賣」と押印がある。「賣」は「売」の旧字体。ちょうど「村田」「米良」の2つの改印に続いて置かれている。

舎人梅王丸・舎人桜丸 (部分) BlueIndexStudio所蔵

これは「下において売る」という意味だ。地本問屋・書物問屋など出版物を販売していた当時の書店では、錦絵などを客からよく見えるように吊るすなどして販売していた。しかし、この印が押された版画は、下げたり飾ったりせずに下に置くなど「目立たないようにして売るように」という但し書きが加えられた形だ。

この時期は2名の町名主が作品検分をしていた。担当町名主は「村田」「米良」。「シタ賣」印の有無も町名主の判断となる。

この印が使われた時期は1850(嘉永3)年3月から約4年間、似顔絵とわかる役者絵の一部(竹内 2010)に押印されていた。

今回の作品は1850(嘉永3)年7月の江戸・中村座上演にあわせたもので、梅王丸は7代目市川高麗蔵、桜丸は初代坂東しうかを描いたものであることが、早稲田大学演博データベースによって確認できる。

『江戸文化の見方』によれば、1850(嘉永3)年3月は、天保改革の奢侈禁止令に触れて江戸払い(江戸十里四方追放)になっていた5代目市川海老蔵(7代目市川團十郎)が赦免となり江戸の舞台に復帰した時期であるために、話題の人気役者海老蔵を題材にした作品に「シタ賣」が押印されたものが多く見られるとのこと。

ちなみに、梅王丸を演じた7代目市川高麗蔵は5代目市川海老蔵の三男ににあたる。

天保改革により禁止されていた役者絵の流通が復活を見せていた時期。出版業界としては売れ筋の役者絵が再度の禁止令を受けることを危惧し、控えめな販売方法を促すために使われたのが「シタ賣」印だということだ。

<参照文献>
竹内誠 2010 「出版統制」『江戸文化の見方』角川学芸出版 p.316−317

<参考サイト>
早稲田大学文化資源データベース《舎人梅王丸・舎人桜丸》
https://bit.ly/3Kjtjcg(2022年1月11日閲覧)

梅王丸と桜丸 

2022年、令和4年の最初の作品は、梅と桜で華やかに。

舎人梅王丸・舎人桜丸 豊国画 BlueIndexStudio所蔵

作品名:舎人梅王丸、舎人桜丸(とねりうめおうまる とねりさくらまる)
板元:恵比須屋庄七
落款:豊国画(年玉枠)
絵師:三代豊国(国貞)
改印:米良・村田(シタ売)
判型:大判 錦絵
出版時期:;1850(嘉永3)年
興行名:菅原伝授手習鑑
上演:1850(嘉永3)年7月11日
上演場所:江戸・中村座

退色は画像のせいだけではなく実際にみてもこんな感じ。一方で目立つカビや虫食いもないところから安定した平らな場所か額装などの保存状態であったようだ。

この作品にはあまり一般的ではない「シタ賣」という押印がある。これについては改めて。

<参考サイト>
早稲田大学文化資源データベース『菅原伝授手習鑑』
https://bit.ly/3nmjEI2(2022年1月11日閲覧)

5年越しのカタログ

2016年に渋谷Bunkamuraで開催された『ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 私の国貞』展。帰国中に観ることができたものの、飛行機に預けるトランクの重量の問題でカタログの購入を断念して帰宅してからというもの、2017年にはMFAでも国芳国貞展もあり、完全に失念していた。それがふと思い立って見た古書サイトで発見。サイトの本の状態では「良好」とあったが、どう見ても新品。

ざっとめくって一番に目に入ったのは、MFA日本美術キュレーターのセーラ・トンプソン氏の解説。 2016−2017年の二カ国開催のクニクニ展がつぎつぎに目に浮かぶ。

頓兵衛娘於ふね

国芳の《頓兵衛娘於ふね》の基本情報。

BlueIndexStudio所蔵

画題:頓兵衛娘於ふね(とんべえむすめおふね)

版元:元飯田町中坂 人形屋多吉

落款・押印:一勇齋国芳(芳桐印)

改印:村田・米良

もう一つ、この作品には裏張りあり。